胸突坂その2

せんだっておとめ山(御留山)のことを書いたので、ついでっていったらなんですが、御留川のことを。いまはちょっとにおわないことはない神田川は江戸時代まで御留川といって神田川では町人は釣り等はできませんでした。

神田川は早稲田にほど近い目白台下の関口に流れてくるんすが、江戸幕府は関口に大洗堰というのをつくり水位をあげて水路をを2つに分けて、ひとつは上水としていまの後楽園の水戸藩上屋敷へ流し、そこから地下水路で神田・日本橋方面に給水しました。もちろんいまはそんなことはしていません。これらの水道は途中から幕府直営事業で、御留川として釣り等を禁止したのは水質を守るためだったのかもしれません。で、余った水は外堀へ流して御茶ノ水のあたりを通って隅田川に流してました。

大洗堰の取水口にあった上水の流水量を調節するため「かくおとし」と呼ばれる板をはめこむための石柱が、すぐそばの江戸川公園というところに残ってます。

で、目白台下の関口にいたのが松尾芭蕉です。俳人として身をたてる前にこの地で彼は水道関係の仕事をしてたのではないか、っていう説があります。芭蕉の死後、芭蕉を慕う門人たちが芭蕉庵を目白台下・関口につくります。

芭蕉なんすけど、芭蕉庵に芭蕉とはシャレかなのか、それとも芭蕉は永遠なりっていう俳人の熱意からか。

個人的に松尾芭蕉がすげー人だなって思ったのは、そこにあるものを、あるのかどうかわからないものに17字ぽっきりでリンクして軽々と結び付けて言い切るところです。閑けさや岩にしみいる蝉の声、なんてのがいちばんわかりやすいですが、ほんまに岩のなかに蝉の声がしみいるのかわかるわけないのです。でも言い切っちまうところが恐ろしいしあーそうかもしてないな、って思わせるのが(騙されてるのは私だけかもですが)すごいのです。ついでにかくと、髪はえて容顔蒼し五月雨ってのがあってて、体調が悪くなる梅雨時に身だしなみすらままならぬどこかあわれな自分がいるよ、っていう自虐的なんすけどどこか「ああそういうことあるよねー」という句も残しててどってことないことにすら作品にしてしまう貪欲さと観察眼は正直すごいな、って思えるんすが。ひょっとしたら、洪水が多かったであろう水道関係の仕事に関与してるうちにその手の観察眼を磨いてたのかもしれません。30秒ほど試行錯誤してなにかひねり出せるだろうか、と思ったのですが、観察眼がそれほどない人間がいくらいきがったところで、句をひねり出そうとしてもそれはむちゃかもしれません。

さまよいて足もとくらしやぶの中

ちなみに芭蕉庵はずいぶん前に紹介した胸突坂のすぐそばにあります。