フジが咲きはじめました。

最近なんかこう、写メばかりですが、余裕があるんだかないんだかわかんない日々が続いてます。でも上を向いてこれくらい撮れる余裕があるんだから、余裕はあるのかもしれません。


美しいとかきれいってのは、それをみちまったひとが他人に言いたくなるので、意味を持つのかな、てなどうでもいいことを写メとったあと考えてました。きれいなフジを見た、っていうのを誰かに伝えたい、っていう働きかけのようなもの、ってのが「きれい」ってのを見た時の反射にはあるんじゃないかと思ってるんすけど、でも、え、どこがきれいなの?って人もいるだろうから普遍的なきれいってたぶんないんじゃないかと思います。誰かが書いてた花の美しさなんてなくて、美しい花があるだけだ、っていうやつっす。だから俺はこういうフジが好きだよ、っていうことしかできない。で、きれいとか、好きっていうのは、それを感じたり考える人の中にしかないのではないか、なんておもってるのですけども。
美しいっていう感覚とか、こういうのが好きっていう感情は、その感情を持ってるひとのなかのきわめて私的なコアな部分っていうか、孤独とうらはらの、そのひとだけのものでしかないのではないか、でもそれじゃ寂しいから、他人に言うし、同好の士を作ったりするのかなあ、などと、書いてて、俺は何を書いてるんだ脱線してるんだって今思ってるんすがそれはともかく(たぶん人はそれを現実逃避というのかなあ、と)。


花鳥風月を描いた多くの日本画を考えると、人って弱い生き物だと思うので、美しいものを見た、とか、心が動かされれば動かされるほど、黙ってられないのではないかなんて考えてるんすけども。というのは、黙ってなきゃいけないことも、平気で人は「ここだけのひみつー」とかいっていっちまうのをみると、日本人ってなにごとも黙ってるのができない民族なんじゃないか、って思ってるんすが。その黙ってることができない、っていう引き金を容易に引いてしまうのが、花鳥風月なのかなあ、と。


うまくまとまらないけど、個人的にフジの花は歩みを止めて写メとるくらいにきれいでした。