選挙をめぐる「1票の格差」訴訟というのが実はあちこちで提起されてます。憲法法の下の平等というものを踏まえると投票価値というのは重要なテーマで、やはり格差があるってのはまずいのでは、という疑義が昔からありました。でもって09年夏の衆院選で最少の高知3区(土佐清水市ほか)と千葉4区(船橋市)との間で約2.3倍の格差があったのですが、この選挙についての無効を求める訴訟があって、23日に最高裁大法廷で、約2.3倍の格差について「憲法の要求に反する状態に至っていた」 という判断をが下しています。理屈の上ではたしかに一票の重みが一対二以上に広がると(一人に二票与えたのと同じになるので)投票価値の平等・法の下の平等がは守られません。ですから、すごくわかりやすい判決です。なお選挙自体を無効とはしてません。
今回の訴訟がけっこうでかいのは「1人別枠方式」の否定です。衆院小選挙区は、総定数300のうち各都道府県にまず一議席ずつ配分し、残り253を人口比例で都道府県に振り分けて区割りを決めていて、たとえば高知は77万で+2で計3議席、千葉は602万で+12で計13議席です。今回の最高裁の判断で、この制度について格差の主要因としてて「1人別枠方式と、これに基づく区割りは投票価値の平等に反する状態」としてます(つまり、遠回しに「やめなはれ」といっています)。
この「1人別枠方式」はかならずどの都道府県からもその県単位から複数人の代表が出ることを保証するシステムです。で、別枠方式が中選挙区時代から小選挙区制に移り変わる激変緩和措置として合理性があった、としつつも人口の少ない県に多めに定数が配分されることになっちまうので、前にも少数意見として「正当性を認めることができない」というのがありました。たしかに通常の普通選挙といった場合、できることなら憲法を踏まえて投票価値の平等は守られてしかるべきでしょう。政治的に等価値な個人の意思の積み上げによる意思決定がが民主主義の基本であるべきだからです。裁判官の考え方は投票価値平等路線に軸足を移してるのかもしれません。で、10年に広島高裁で係属していた訴訟で1人別枠方式をやめて完全に人口比例で配分したシュミレーションをしてるのですがその場合は最大格差は1.67倍で、やろうと思えばできないことはないです。


そもそも人間というのは属性に差異があります。差異性の側面をすっとばして金持ちであろうと貧乏人であろうと男であろうと女であろうと農民であろうと工員であろうと政治的平等を個々に与えるってのはフランス革命以降の否定すべきではない革命的な知恵なんすが、平等な個々人の意思をくみ上げて多数決で意思を決定してゆくシステムでほんとに投票価値平等をつきつめることがほんとにベストなんでしょうか。実はこの問いはフランス革命以降ずっと語られてる話なんすが、これをつきつめてやってしまうと、多様な民意の反映ってのができにくくて多数派を構築しやすいほう・地域の人口の多いほうの意思が優先されやすくなる弱点があります。具体的に書けば鳥取や高知選出の議員を減らせば、投票価値平等は貫けます。でもそのぶん人口の少ない地域の意思が反映されにくくなるわけです。千葉や神奈川の定数を増やすことも投票価値平等への近道ですが、過疎地の事情を国政に反映させる機会ってのを減らすことにはかわりありません。実は衆院以上に今まで地域性の考慮・反映は参議院が担ってきました。都道府県ごとの選挙区で代表を選んできたからです。しかし参議院のほうも裁判所は一貫して一票の価値の平等を重視してきていて合区の話すら出てきてます。もちろん他地域から選出された議員は国民の代表であるので選挙区でない地域の政策を扱うことがあります。しかし、それだけでは考慮されるとは限らない地域の問題・人口が少ないので代表を多く送り込めないゆえに議会内多数派を構築できない地域・属性の人々が抱える諸問題をどうやって反映させてくのか、えらい難しい問題なのです。それを考えると今回の最高裁大法廷の判決ってのは原理原則に立ち返って平等を突き詰めてて判りやすいけど、結果として少数派の抱える問題の口封じの後押しをしてるように感じます。考えすぎかもですが。


くりかえしになりますが一票の価値の平等を突き詰めれば突き詰めるほど、多数派の最大利益が反映されやすい制度になります。多くの人が利益に与かれるのであるからどこに問題があるの?といわれれば、その通りなのですが、ほんまにそれでええのんかあ?ほんまに法の下の平等より重要なものはないのんかあ?ということを、間違ってあほう学部出た人間は思っちまったりするんすが。