たとえば一度よい体験をしちまうとそれがなかなか抜けなかったりします。生の人の声とか生の音楽ってのはきわめて魅惑的で、目の前である一定の集団が同じ方向に向かってパワーを発散させ、においたつというか興にのってるというか一つにまとまってるときのすごさ、ってのと知っちまうとあの興奮を「もういっかい」「もういっかい」と音楽会に通うようになります。それが余裕のある時ならいいのですけど、資金と時間と体力に決して余裕があるわけではないのでやはり止めてます。過去の体験に人間は囚われる、ってのがヨーカドーのトップの言葉なのですが、あながち判らないでもないっす。美味しい酒を知ると「あ、できればもうちょっと」ってなふうになります。


貴腐ワインってのがあって、数年前デートで行った甲府のワイナリーで試飲したことがあるんすが、美味しかったんでもうちょっと呑みたいってんで折半して買おうと値段訊いたら二万くらいしました。ちょっとだけ味あわせておいて購買意欲を刺激しておくって巧い商売って言えば巧い商売なんすが、手が出ないわけではないけど、まだ身分不相応かも、ってんで諦めました。私はたまにこの身分不相応ということばが頭をよぎります。最近も会食事に日本酒であわよくば「もう一回」って思える酒があったんすけど、後で訊いたらすこし値段がはるようなものでした。だせない額ではないけど、やはり身分不相応かな、と思ってその銘柄の酒は名前はしっかり覚えても、買っていません。貴腐ワインも、最近知った日本酒も、もうちょっといろんな経験してから・年をとってからいつか呑む日のためにとっておくつもりです。その前に死期がきちまうかもっすけど。


高いお酒って「いまの俺が飲んでいいさけなのかな」ってのをなんとなく問われることがあるような気がしてます。もちろん気がするだけで、そんなものはないかもしれません。でも酒に限らず、たまにでてくるその「身分不相応」意識が経済的破たんを招かずいにて、自分の身を助けてるのかなあ、って思うときがあったりするんすけども。
身分相応の酒ってなによっていうと、身近には黒ラベルとかになるんすが、とくに仕事が終わって帰ってきて風呂あがりのビールが冬でも一番うまかったりするんすが、高い酒飲まなくてもそこらへんに幸福を見つけて満足してるんすから、まだ身分は決して高くはないようです。