現国の記憶

高校生のとき「芋粥」という小説の、現代国語の先生の解釈にたてついたことがあるんすが、中学の時には「山椒魚」というの小説にもなんだかもやもやがありました。両方とも作者の意図や登場人物の気持ちを推測するってのが重要なんすが、でもどこか「そんなものわかるわけないじゃないか」ってのが常に根底にあったのです。そういうわけにもいかない・書くわけにもいかないので考証して、たてついた・書いた記憶があります。現代国語はほとんど予習復習をしないでも点を稼げたのでわりと楽をしたのですが(予習復習しなかったので文法がちょっとおかしい)、どこかに正解があってそれに近づけなければ点をもらえない、ってのがうっすら苦痛でした。
ブログってのは解答欄があるわけでもないし設問を自由に設定でき自分の意見を吐きやすくて、なおかつそれは絶対違うんじゃね、って否定の添削を言われる確率が低いので気楽では有るんすが、夜こっそり海辺で手紙の入った瓶を流すような、ひどく孤独な作業でもあったりします。それはともかく。

春と秋、どっちがいいか、ってのは額田王とか光源氏の頃から果てしなく続く議論なんすけど、その議論をしたくなる気持ちは紅葉をみてると「なんとなくわかる」んすよね。
どうしたもんかなー、なんて考えてるものを抱えてると「ああわかるわかる」ってなものをどこかで欲したくなるんすが、そんなふうに紅葉をみるのはどこか歪んでるかもしれません。