どこに正解があるかわからない、ってのはどこか怖くて、けど怖いけどそのまんまにしておくわけにはいかないので、なにかしら動きます。とりあえず問題そのものをしっかりと読んで分析してこうなのかなあ、と、あたりをつけて、そっからといてゆきます。銭形平次っていう時代劇があって、(でも一度も見たことがないのですが)テーマソングの【男だったら、ひとつにかける、かけてもつれた謎を解く、誰が呼んだか、誰が呼んだか、銭形平次♪】ってのがこびりついてて、まあ、おれもついてるものついてるしってんで、とりあえずひとつによくかけてみるのですが、なるほどもつれた糸の解体ってのは、めんどくさくてすごくデリケートな作業なんすが、たいていヒントがあったりする。
その一連の作業も私にとっては小さな度胸が必要で、すこし怖い作業です。たぶん、目の前のもやもやの中に正解ってのがどこかにあるのではないか、と思うのだけど、その正解を自分が把握してない、ってことがやはりどこか不気味というか何度やっても慣れないしそういう場面に遭遇するたびに少しだけしんどいなー、って思っちまいます。


で、正解にたどりつけなくて似たようなことを繰り返してるうちに徒労のほかに感じるものが悲しみで、判っててもおかしくない相手の抱える正解・いわんとしてる正解がうっすらでもわからないと、寂しさを感じちまう、ってなことになってくるのかなあ、と。
悲しいとか寂しいって、ほんとはどういうことなのか、どういう定義のことなのか、判ってないであてずっぽうでいってます。ぜんぜん違うかもしれません。