ドーナツの穴

もう記憶があいまいだけど秋里和国という人のマンガであるシーンで友井という登場人物が
「ドーナツの穴とは何か?」とリヒャルトという人に尋ねられます。
「真理」と答えるんすけど納得したリヒャルトさんはその後にドーナツを二つに割って「真理の崩壊」と笑います。
穴はドーナツがあることによって「ない」ものとして「ある」ことになります。ドーナツがなければ穴もないままです。なにかが有ってはじめて存在するわけで、真理ってのは、巧い言い方だなあ、と思ってました。「花の美しさがあるんじゃない、美しい花があるだけだ」っていう小林秀雄の言葉をとっさに思い出したのですけども。


ここらへんのことを10年以上前にたしか用があって行った前橋からの帰りの普通電車の車中で読んで、なんとなく「すごいこと描いてるぞ」ってのがあって、いまだ忘れられないです。
で、リヒャルト氏は真理を崩壊させちまってますけど、ドーナツを二つに割って穴がなくなってもそれがドーナツであり続けるのはなんでなのかってことを昔考えたのです。
たぶんそれは、穴があったこと・欠けてることを記憶してるからなんじゃないか。人の記憶って、なにかが欠けてると判った時にあのときはこうだったよな、と、思い出すことがあります。そのメカニズムって、たぶん欠落がどこか悲しくて、人間って記憶をたどって穴を埋めたがる心情をもつせいかもしれない、と、そんなわけのわからんことを考えてました


たぶん哲学書を読めばここらへんの最適解が出てくるかもしれないと思いつつ、読んでません。無教養であることはどこか恥ずかしいのですが、思想とか哲学ってのになんとなく難解なんじゃないかという警戒心をどこか覚えてて哲学とか思想ってのは大事なんだろうなー、とおもうものの近寄らずに今に至ります。小林秀雄の文章はなにかのテストの問題文に出てきたのでうまいこというなあ、と思って腑に落ちてその一節だけ、覚えてるにすぎません。最近公共広告機構の広告で今年が読書年ってことを知って、おれ教養がないからそういうの読んだほうがいいのかなーブログで無知をさらしてるだけ出しなー最近、などとと思いつつ、やはり手がなんとなく伸ばせてません。


今日、偶然、箱入りドーナツをみて脈絡なくリヒャルトさんのことを思い出しました。あ、どうでもいいですが、最近のドーナツってちっちゃくなってません?人の記憶って美化しちまうのかなあ。