夏目漱石草枕に「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される」ってのがあって、「とかくに人の世は住みにくい」ってつながります。これ、角に当たったほうのことではないんすよね。実際問題として、角に当たったほうはより痛いと思うし、もっとすみにくいんじゃねーのかな、なんて思うのですが。
理屈で何か言われてるときに理屈ではその通りやなー、と思いつつ心中では本当にその通りだと思っているかっていったら、そんなことありません。やっぱりどこか納得してないときが多いです。情はまったく反対側を向いちまうことすらあります。理屈でなにかを云われても理屈でない反発を感じることがあります。それはほんと情緒的なものなんすけども。たぶん【自分は悪くない】と考える性質が心の奥底のどこかあるんじゃないかなんて思ってます。そこにいたるまでの選択を注意して行ったならばなおのこと。


くわえてこちらの見解に対する否定的な意見を含む理屈とか、自分に対する「○○すべき」とかの「説得」がほんとに正しくても、それが「説得」というかたちをとっている限り、やっぱりあまり人から説得なんかされたくない生き物なんじゃないかとおもうのですが、身構えちまうことが多いんすよね。こうかくとほんと子供ですが。
説得や示唆を聞いたうえで、理屈では理解したけれど、その結論やその結論が導き出された過程や方法を「嫌悪」し、それを受け入れにくいことってあるんすよ。ケツの穴の小さい男っす。


振り返って他人に対してどうか、ってのは説得とか説明とか巧くいってるか、配慮できてるかっていったらたぶん出来てないかもしれないです。アプローチの仕方とかずっと何年も抱えてる根っこの部分なので、いまだ模索してます。聞く耳持ってもらうためにどうするか、どうやったら他人に対して理解して協力してもらえるかって云う点。頭で考えれば易しそうですがぜんぜんそんなことはなく、もしそこらへんのノウハウがわかったら、広告代理店とかにでも転職するかもです。
模索の上でたどり着いたのは、たとえは悪いけど、相手をよい気分にさせるための本題に入る前の「前戯」が重要になってくるのかなあ、という点くらいで。 「前戯」を大切にいいほうへ模索しながら、って書くと、どこか違う行為のようにとられちまいそうですが。