個人的体験2(一部加筆)

我慢すればなんとかなることがあります。時間の経過ってのはなにかを解決した気分にさせて、やわらいだりなんとかなることがあります。でも単に我慢したり時間が過ぎるだけではなんともならないこともあります。つくづく思ったのは父親の死です。母は「人が死ぬのは現在を失うのと一緒」ってなことをいうのですがほんとそのとおりで、過去はもう永遠に過去のまんまで固定され、死んだ父に関しては振り返ることはできても修正・上書きすることができません。一番最初はそのことがわからず、父が長期間どこかへ行ってるような感覚だったのですが納骨とか相続税関連の書類を書いてるとそんな甘っちょろい幻想はすべて消え、事実がすべて目の前に立ちはだかります。そこらへんひどく堪えました。さびしさとか悲しさを乗り越えるには目の前にある状況を受け入れるしかないわけっすけど受け入れるには大人になってたにもかかわらず時間がかかりました。たぶん悲しさやさびしさというようなものを自分一人でなかなか処理できないことってあるとおもうんすけど私の場合は途中で好きな相手ができ、その相手の影響で音楽をきいたりとか、ありがたいことに相手に背中を支えてもらいながら一方で受け入れる処理をしたからなんとかなったのかも、って思っています。


好きな相手を自分だけがずっと独占できる保障はないってことを私はそのあと改めて知って(そうなるかもという妙な諦観も事前にあったのですが)、そのときは人が死ぬとは別の種類の(大事なものに穴が開いたような)悲しさってのとさびしさ、ってのはやはりありました。
その状況を受け入れることはやはり時間かかったんすけどなんとなく乗り越えられてる(と思ってる)のは(何割かはネット上の友人に支えてもらったのと)何割かは音楽を聞くとかの「悲しいとかさびしいさを切り抜けるためのいくつかの方法」を実体験してて、過去を参照して臨機応変にアレンジすればいい、っていうくらいの知恵はついてたせいだと思ってます。ただ乗り越えたつもりでいても、でもたまになにかのきっかけで、またさびしさや悲しさの中にはまっちまうことはあるんすが。そのきっかけも音楽であることがあります。


悲しいとかさびしいということについてなるべく遠ざかってるつもりでいるんすけど、耳に入ってきちまう特定の音楽なんかを聞いちまうと、引きずり込まれちまうことがあります。
人間の情の中にさびしさ悲しさってのがあって、理屈抜きに音楽ってたまにその情を呼び起こすというか引っかきまわすことがあるんじゃないかって疑ってます。音楽に癒されたこともあるんすけど、心の中をかきむしられることもあって、音楽ってほんと怖いなーって思います。