祇園祭(山鉾風流)

独身でも貴族ではないので平民っぽく夜行バスで奈良へ向かいました。最初の目的地が奈良なのは「鹿男」の影響です。
まず向かったのは平城宮跡近鉄電車に乗ると大和西大寺という駅と新大宮までの間の平城宮跡の草原を突っ走ります。いちど夕暮れ時にそこを通過したときその眺めがほんと印象的でもういちど見たい風景だなー、と思っていて、できれば平城宮跡でたたずんでみたい、っていうちょっとくだらない希望が前からありました。ほんとは夕暮れ時が理想なのですが贅沢は云ってられません。

大極殿を現在復元中。たぶん遷都1300年祭にあわせるため。
南側にはそこに朱雀門(と近鉄特急が)みえてきます。

あさいちばんの時間なので、ほとんど人が居ません。犬の散歩と通学途中の学生とすれ違ったくらい。
誰も居ない草むらでちょっとぼんやりしてました。そんなことをしても何かが判るってわけじゃないのですが、史学、文学を学ばなかったけどそのことにどこか未練があるので、なんとなく史学や文学の雰囲気にのまれてみたいってことに過ぎません。ただごらんのように草むらのなかなので相当な想像力が必要で「夏草やつわものどもが夢のあと」のほうがにあいそうではありますが。

朱雀門です。最近復元されたもの。けっこう大きかったです。向こうにちょこっとだけ生駒の山がみえます。あをによし、の語源って諸説あるようですが、単純に青空と朱ってのは、いいっすね。


そのあとは春日大社へ参拝。ここも朝早いせいかほとんど人気がありませんでした。人間より鹿の人口密度のほうが高いんじゃないか、ってなくらい。

清浄な、っていうのがふさわしい空間でした。
神無月じゃないけど、出番だよ

なんてことは鹿と目があっちまっても、云われずにすんだんすけども。

飛火野です。ひどく気分のいい場所なんすけど、あしもとに注意しないとまずいところ。黒豆のような鹿のふんがころがってます。たぶんこの芝生が見事なのは、この天然肥料の影響がいくらかあるんじゃないか、と思います。

夏の日差しの下、猿沢池そばの木陰で休んでる鹿のみなさま。
ちなみに猿沢池って中心部のわりとそばですが、奈良って街中に動物が居ても誰も疑問に思わない、稀有な町でもあります。日本で一番ゆっくり時間が流れてるような気がします。
しばらくぼんやりしたあと、祇園祭真っ只中の京都へ。


なんで京都かは、電話一本で戻る約束なのですぐ戻れるからと、きわめてミーハー的好奇心から死ぬまでに一度祇園祭をちゃんと観ておきたいってのを前から考えてたからです。祇園祭は千年以上の歴史があるし毎年やるものなのですが、私自身が仕事でもプライベートでもなんとなく「この先どうなるかわらない」ってのを意識してて、この際チャンスがあるなら観ておこう、と思ったのです。


祇園祭というのはもともと疫病などで死を迎えた者の御霊による祟りを防ぐための、鎮魂のための祭礼でした(昔の日本人は天変地異はすべて死んだものの御霊のしわざなんじゃないか、って怖れてて、それを鎮めるために工夫したわけです→有名なのは菅原道真を九州に流しておいて天変地異が多かったので彼の死後彼の御霊を鎮めるために天満宮に神様として祀ることで対処しました)。霊を慰撫するために練り歩きながら祈ってたんすけど、祈ると同時に霊を楽しませなきゃ、ってんで華美になった部分があります。で、いまは京都の八坂神社の祭礼となってます。先ほども書きましたが応仁の乱や第二次大戦中を除き千年以上ずーっと続いています。
祇園祭のメインイベントのひとつが山鉾風流、俗に言う山鉾巡行です。で、これは室町時代あたりから続いてます。「霊を慰撫するための練り歩き」ってのが、山鉾風流の主目的と思われます。で、さっき、祇園祭は八坂神社の祭礼っていいましたが、山鉾風流自体は八坂の神様の神事とはほとんど関係ありません。ほんとは神事的には山鉾風流のあとの祇園の八坂神社から神輿に神様を乗せて四条通まで持ってくる神輿渡御のほうが重要なんすけど、祇園祭というとなぜか山鉾風流のほうが有名になっちまいました。
で、山鉾風流の前の数日、山鉾を公開します。山鉾風流とその山鉾の公開を狙って京都入りです。


長刀鉾です。この写真だとみえないっすけど、屋根の上に柱が伸びてててっぺんの鉾頭に長刀が乗ってるので長刀鉾です。

長刀で疫病や災厄をなぎ払うわけっす(ただしいまは竹製で錫の箔を張ってます)。で、そういう役目があるのでかならず山鉾巡行のときは一番最初を行きます。
厄除けの粽(ただしほんとの粽は入ってない)や手ぬぐいなんかを買うと巡行時に囃子方がのる部分に搭乗させてもらえます。ただし、女人禁制の鉾がいくつかあります。長刀鉾もそうです。この女人禁制ってのは信仰にかかわってくるものなので例外がありません。やんわりと断ってらっしゃってました。
京都市中心部に32の山鉾がありまその山鉾を所有・保存してるのは昔から町の自治組織です。でもって、山鉾には祇園祭に対する町衆の意地が凝縮されてます。

山鉾は町会所というところに置いてあるのですが、巡行の数日前から山鉾にかける懸装品や稚児衣装などが町会所に飾られてます。見学させてもらったんすが、すごいんすよー。京の着倒れ、なんて言葉もありますがほんと金に糸目をつけてない、ってのは素人目にもわかりました。



続いて放下鉾。新町通という、和装関係の問屋の多い細い通りの鉾です。当然自動車通行止め。この期間は商売よりも祇園祭です。ちなみにここも女人禁制です。

インドだかペルシャの絨毯です。江戸期にこういうものを買えるほど当時の京都の町衆は実力・資金力があったんでしょう。

放下鉾の町会所は京都によくあるうなぎの寝床のような敷地です。

奥に蔵が見えます。いつもはあそこへ片しておくそうです。

二階に上がるともっとよくわかります。専用通路があって、いちいち一階へ降りずにそのままいけるようにしてあります。ちなみのこの反対側は鉾の上部につながってます。
飾り立てた山鉾に巡行の結果ひきよせられあちこちから御霊が集まってくるわけっすけど、御霊を慰撫したあとには御霊に消えていただく必要があります。で、解体と一緒に御霊も消えます。そのためにはやく解体し蔵の中に入れておきたいのです。片付けの都合のためにこうしてるみたいです。

この放下鉾の会所では「どうぞゆっくりご覧ください」っていうお言葉に甘えてほんとゆっくり見学させて貰いました。


黒主山という山ですが、ご神体がまだのってません。

で、囃子方がのる鉾に対してこういったスタイルのものは舁山と呼ばれます。鉾とこういった山をあわせて山鉾っす。
黒主というのは有名な謡曲にでてくるらしい大伴黒主という人物が関係してくるのですが、謡曲をほとんど知らないので素通りしちまったんすけども。伝統的文化の基礎教養がないのを恥じるのみっす。


地図を見ずに糸の切れた凧のようにさまよってたのですが、出くわしたのがほら貝の音。地図を見ると役行者山というところがあります。むむむ、これは、と思って役行者山へ。役行者っていうのは修験道の始祖です。で、ここでは神様として祀ってます。京都には聖護院というところがあります。役行者が開いた修験道の総本山です。修験道自体は仏教なんすが(わりと真言宗に近くて四国にも修験道に関する札所があります)修験道ゆかりのいくつかの山鉾に立ち寄る歴史があるようです。で、役行者山では町内の安全や巡行の無事を祈って修験道の山伏たちがあつまり護摩を焚きます。有名な行事なのか、けっこう人が多かったです。
最初、町の人はなかなか山伏たちを迎え入れようとしません。勧進帳じゃないっすけど、山伏たちにいくつも問いを投げかけます。その「ではその○○は!」というと「これは□□なり!」という調子の問答が興味深かったです。というか、歌舞伎以外のところでそういう問答をきいたのははじめてだったかも。その問答が終わった後30人以上居たでしょうか、山伏の方々が集まって法要がはじまります。

巻物のようなものを読んでるのが聖護院の門跡さん。

法要がはじまって火をつけたのですが、その上からなんども水をかけます。そうするともうもうたる煙に周辺は満ちた状態に。それで観客は半分くらい減ったかも。いちばん最初から最期までぶっ通しで見学させてもらいました。


京都は地場産業として和装関係が強いです。呉服屋さんが多いのですが、そこでこの時期行われるのが屏風祭りと呼ばれるもの。各店の秘蔵の屏風や品物を見せるのです。
これは松坂屋京都店のもの。百貨店の松坂屋が主に仕入のために置いた店です。

屏風がなんか、すごいいい絵でした。

これは誉田屋という店の店先の写真。展示してあるものが、二階建ての町屋よりでかいっす。こんなこともできますよ、っていう商人の底力っていうものかもしれませんが。


ただこういうものを見ていてつくづく思うのは、歴史があるということは過去を参照できるけども、逆に常に過去といまを比較されることでもあって、そこでどうするか、ってのが、実は大変なのかも、と思ったり。和装とか伝統の世界に限らないと思うのですが。



菊水鉾です。幕末の兵火で焼失したものを昭和20年代に復活させたものです。他の山鉾のある町に負けてなるものかという対抗意識もあるでしょうが、昭和を代表するという意識があるのか、かなり豪華絢爛なもの。

菊水鉾からみた室町通の夕暮れです。提燈に明かりが点り、なんとなくいい雰囲気に。で、夕方になるとかなり人が増えてきました。たこ焼きとか焼きそばの屋台も盛業中です。普通の祭りと何が違うかといったら、やはり「コンチキチン」と鉦の音が特徴的な囃子が聴こえてくるところです。



月鉾です。大きさがどんなもんかってのを把握するためにとったつもりですが、わかりにくかったらすいません。近くを市バスが走ってますが、囃し方の人々がのるところは普通の家屋の二階よりもうちょっと上になります。で、さらにその屋根の上、赤いとんがり帽子の上に天に突き刺すように柱が有りますがその先の鉾頭には(わかりにくいんすけど)三日月がのってます。で、月鉾です。その三日月部分まで20メートル強でしょうか。
この月鉾もまた、なんというか「なんかすげー」という感じでした。撮影は原則禁止なので写真が撮れなかったのですが、左甚五郎だとか円山応挙なんて人がかかわってきた鉾で、そのまんま美術館へGO!ってな感じです。下はここならオッケイだと思って撮った一枚。

たまたま居合わせたときは囃子方さんたちがいました。力強い調子で、自然とその流れに身をまかせてたら身体を動かしたくなるようなそんな感じです。




保昌山です。平井保昌と和泉式部恋物語が題材になってます。保昌が和泉式部のために手折った梅の花と保昌自身の人形がご神体です。そういう山ですから、縁結びに強いところ、とされてます。ここで頼まれ物をしてたのでよりました。

いくつかの会所で「ちまきどうですかー」なんてお手伝いの子供が声をかけるんすけど、ここではお手伝いをしてる小さい女の子と目があって「ちまきどうですかー」ってにこやかにセールスされました。縁結びの縁起物を買う三十代男子がどう見えたか。かわいそうなひとねー、とでも思われてたかも。

会所の二階にはご神体が安置されてます。赤い枝が見えますが、保昌が手折った梅の枝です。布で覆っているところにある保昌の人形(神体)の一部は500年前のもの。500年、ずっと恋に悩む人が本人や代理を立ててこの時期ここに立ち寄ったことを考えると、恋ってやはりいつの時代でも永遠の課題なのかもしれないなー、なんてぼんやり考えてました。




翌日は朝早く起床して京阪電車出町柳経由で今出川通を西へ。堀川今出川白峰神宮へ。

讃岐に流された崇徳帝を祀ってる神社です。実は四国へ行ってから崇徳帝に興味があって、別名人食い地蔵こと崇徳院地蔵を探したかったのですがあらかじめ場所がわかってるこちらへ。朝早いので、参拝者はだれもいません。ちなみに本殿の前は御所と同じで右近の橘、左近の桜になってました。境内の中にある地主社に祀られてる神様が球技の神様なせいかサッカーボールの奉納が多かったです。

同じく堀川今出川にある晴明神社。最近、信太山の狐の話を漠然と思い出したので参拝。


出町柳で腹ごしらえしたあと、祇園経由で四条堺町へ。山鉾巡行の見学です。


まず向かったのが四条堺町。ここでくじ改めというのをします。500年ほど前に山鉾巡行の先陣争いを避けるため、毎年くじで順番を決めるようになり(このくじ引きも六角堂や京都市役所など場所を変えながら500年ずっと続いてます)、その順番を遵守してるか四条堺町でチェックするのです(ただし長刀鉾とか例外的に順番が決まっててくじを改めない山鉾もあります)。
写真、判りにくくて恐縮ですが片手を挙げてるのが山鉾の「くじ改め役」の人です。なんで片手を挙げてるかっていうと所作が決まってまして、くじ引きの結果割り振られた番号の入った文箱に結わいてある紐を扇子で解くのです。

紐を解くと文箱のふたを開け、烏帽子に差袴帯刀で構える奉行役(いまは京都市長)に片手で差し出します。奉行役はそれを取り出し改めます。赤い傘のした、紫色の衣をまとってるのが奉行役の京都市長です。さらに判りにくくて恐縮ですが、八坂神社の幟の下、色の違う若者がいます(反対側にももう一人)、彼らけっこうイケメンだったんすけど、錫杖のようなものを10秒に一回ぐらいついててチャリーン、チャリーン、とやって金属音を響かせてました。たぶん、道を清めるとか祓うとか、そういう意味があるのかなあ、と思ったのですが、謎です。ひょっとしてそこらへんにいるかもしれぬ御霊に対してこれから山鉾が通りますよー、っていう知らせかもしれませんが。

「4番、霰天神山」と周囲に聴こえるように奉行役のくじの確認が終わると、山鉾の「くじ改め役」は文箱を仕舞い、扇を揚げて山鉾に進行の合図を送ります。

その合図とともに山鉾がやってきます。ちなみに霰天神山という舁山です。天神様を祀ってます。

くじ改め場所という性格からか、一回転する霰天神山。ちなみに正面に懸けてあるのは16世紀のベルギー産の毛綴です(なんかこう、価値ありそうなものばかり見てると感覚が麻痺してきます)。

印象的だったのは四条傘鉾。お囃子にのって、稚児さんたちが棒を振ったり舞いを披露してます。目の前で繰り広げられてた光景にちょっと見とれてました。音楽というか囃子と踊り、っていうのは人をひきつける魔力があるなーとおもいます。そこらへんに居るかも知れぬ御霊が「お?」と興味を持ち、慰撫されるっていうのがなんとなくわかりました。

そのあとに傘が通過。公式パンフによると応仁の乱の前はこういうのが主体だったそうです。
どうでもいいですが、街路灯の向きがあさっての方向へ向いてますが、なんでかっていったら山鉾がぶつかるからでしょう。山鉾は32ありますが、こういった大規模なものは10あります。

四条通をゆく月鉾。たいてい40人くらい乗ってます。鉦と笛が各8名、太鼓2名ですが、それぞれ交代要員がいます。長刀鉾は生身の稚児さんをのせ、それ以外の場合で稚児を載せる場合は人形になります(稚児さんは神様の拠り代みたいな存在で、稚児の居ない山や鉾にはご神体としての人形や観音様なんかが乗ります)。さらに扇子で音頭をとる音頭とりが2名、さらに屋根の上に2人から4人くらいのってます。
個人的にけっこう気に入ったのが蟷螂山。

からくり仕立てで、動きます。


場所を移動して御池通新町通の辻へ。山鉾が御池通を左折して新町通に入る交差点です。

御池通は広いのですが新町通が狭い道で、図体のでかい山鉾はなかなか簡単に曲がれなくて順番待ち自然渋滞が起きます。これはそのときのもの。月鉾(手前)と油天神山(奥)。

定額給付金で有料観覧席を手配してました。私の隣が気さくなアメリカ人の親子連れで、たぶん日本に来てなにがなんだかわからないうちに祇園祭を目撃することになった小さい女の子(この日、私はグリフィンドールのTシャツを着てたので最初は不思議そうな顔をしてた)と一緒に目の前で繰り広げられる巡行をお茶をのんで優雅に観覧。
そしたら目の前でもっと優雅な光景が。

向こうに見えるのはさきほどの月鉾で辻廻しの最中ですが、それが終わるのを待つ間に、後続の菊水鉾の人たちはその時間をつかってお茶を点てはじめるの図。

船鉾です。咄嗟に長崎の精霊流しを思い出したのですが、ぜんぜん関係ないみたいです。

でも住吉の神様も祀ってるようなので、海と縁があるのかも。


辻廻しの様子を。ちなみに大きな鉾の場合40人くらいでひいてます。鉾は南観音山のものです。

まず、車輪の下に竹をかませます。すべりやすいように水をかけておきます。そして曲げたい方向、この場合は南側へ引き手が移動してひっぱります。音頭とりのひとが2人増えて4人体制になってます。お囃子もテンポアップしてます。

西を向いてた鉾が西南の方向へ向きはじめました。竹を調整して、もうちょっとがんばります。引き手の人たちは山鉾の向こう側に居ます。屋根の上の人たちはやることがないので、優雅にのんびりです(でもけっこう怖いかも)。

かなり南へ向きました。でもまだまだ。手前に道具が転がってます。

ほぼ南に方向転換終了。観客から拍手がおきます。

後は引き手を元に戻してひっぱってゆくだけ。

このあと、南観音山は狭い新町通を南へ行きます。



山鉾を組み立てるところを見ることができる、なんてのを聞いてました。でもって組み立てるところを見れなかった代わりに片付けるところを見学できないだろうか、なんて考え、前日放下鉾で片付けの話を聞いててアバウトな時間を聞いてたので、放下鉾へ直行。

昨日はじっくり見学できなかった山鉾の後部。ちなみにバグダットを飛ぶフクロウです。なんでこんな取り合わせか?ってのは、謎です。御霊に世界のいろんなものを見せようとしてるのか。

肝心かなめなところでバッテリー切れでケータイの写メで恐縮ですが、山鉾の木の骨組です。

一切、釘を使わず縄でなんとかしてます。なんかすごいっす。縄のほうがかえって遊びの部分があるので良いらしいようで。遊びって重要なのかもしれません。



駆け足で祇園祭の一部(ほんとは祇園祭は一月ずっとです)を見学してきました。いまのスタイルになってからすくなくとも500年は、京都の人たちは御霊を慰撫し(そして生きてる人たちも慰撫してるであろう)このお祭りを毎年やってます。その歴史の一部を触れることで今というものが過去から脈々と続いてるものの上に居るのかもしれないなーってこととか、音楽ってのは人を慰撫したり鼓舞したりするもんなんだなってこととか、ぼんやりと体感してきました。でも物見遊山に終わっちまった気もします。それでも何度か引用してるそのまんま東さんの
「見知らぬ空間を観るということが、何故、人にこんなエネルギーとドラマをくれるのか?
その原因ははっきりとはわからない。
きっと人は、生まれるずっと前、どこかに「何か」を置き忘れてきたのではなかろうか?
その「何か」を見つけるためにこの世を移動するのだ」
って言葉を手がかりにすると、今は明確に言葉にできてないっすけど「何か」置き忘れたものを見つけたような気がしてます。
でもそれはそもそも取り戻せたかどうかもわからないし御霊と同じで目に見えないし姿かたちもないのでほんと気のせいかもしれないのですが。