体質1

90年代になっても比較的学生運動が盛んな大学で勉強してたんすけど、その学生運動にはまったくコミットしませんでした。云ってることのスジは正しいのだろうけど、なんつーか裕福な家の子じゃなかったからバイトしててそれに忙しかったのと、なんとなく皮膚感覚的に「正しいこと」を叫ぶ人に対する疑念とか猜疑心があって避けてたんすが。疑念は正しいことを主張する自分によってるんじゃないの?的なことと、粉砕という文字をつかって正しさを錦の御旗に既存のシステムを壊すのは簡単だけどその壊したあとどう落とし前つけるつもりなんだろうって云う二点です。壊すことに意味があるってのもわかるんすけど、壊すことだけならゴジラだってできるわけで。


「正しいなにかにコミットしない」のが「正しくないこと」なのか、てなことは今でも考えてるんすけど、「正しいなにかにコミットしない」のが「正しくないこと」だとすると、もう、逃げ道がない。参加しないのは無言の糾弾とか批難の対象になったりしやすいわけで、そういう点で逃げ道がないことや、「政治的な正しさ」と云うのを振りかざされるとどこか息苦しさを感じてました。今でも「政治的な正しさ」を前にすると息苦しさを感じてます。


たぶん私はセクシャルマイノリティとかそこらへんに分類されそうな人間で、パレード等政治的な行動にコミットしたほうがいいと頭で理解しつつも参加できてませんしその手の発言をネットでもあまりできてません。護憲運動なんかもそうなのですが、政治的意味合いの強い運動に接すると重要さを理解できても勝手に息苦しさを感じちまって腰がひけちまいます。
たぶん真面目なことを言われてもどこか真面目になれない、根がおちゃらけてる体質を自覚してます。
おちゃらけ体質をなおそうと思ってるのですが、なかなか。