さくら

都心部では満開でないものの桜が咲いてます。

[世の中に絶えて桜のなかりせば春の心はのどけからまし]
てのが在原業平のうたにあります(あったはず)。桜なんてものがこの世の中になかったらどんなに楽だろう、なんでかって、いつ咲くのだろう、いつ散ってしまうのだろう、ってやきもきしなかったはず、っていう歌です。咲いたよっていうメールを貰ったり送ったりや、各地の桜の名所の中継だとか天気予報なんかでも桜前線がいまはここまで北上しました、なんてのをこのうたと一緒に想起すると日本人ってほんとさくらに左右されてて在原業平の時代から全然変わってないんだな、なんてつくづく思いしらされます。


超個人的なことを書くと光の具合でさくらが猛烈に綺麗に見える瞬間ってのを去年香川で目撃してさくらの見方が変わり、言葉に直せばひどくあたりまえな言葉ですが綺麗ってのが継続しない有限のものである、っていうことを改めて知りました。
基礎教養が欠けてる風雅を解さない野郎なので昔の人が何を見てどう詠んだのかなんて深くはつっこめませんがさくらをみて綺麗ってのが継続しない有限のものとか華やかなものでもいつかは終わりが来る寂しさ、ってのを感じとって昔の人の心を揺さぶられたのではないか、日本文学とかの美学の奥底にかなりさくらって影響してるんじゃなかろうか、とシロートは思ったり。