神戸で家出した中学生を家にとめながらその子を「調教」していた学校のセンセイ(もと記事の読み間違いがあったので、一部訂正しました)女性がいて児童福祉法違反でつかまった、って言う話がありました。両方とも女性なんすけどあまり性別は関係ない話です。なんで児童福祉法かというと第34条に児童に淫行をさせる行為をしてはならぬとあるからです。で、淫行ってなにかっていったら別に未成年と性交したらすべてが淫行になるわけではありません。淫行とは正確にはっていう定義がありまして(以下めんどくさい人は読み飛ばしてください)

「広く青少年に対する性行為一般をいうものと解すべきでなく、青少年を誘惑し、威迫し、欺罔し又は困惑させる等その心身の未成熟に乗じた不当な手段により行う性交又は性交類似行為のほか、青少年を単に自己の性的欲望を満足させるための対象として扱つているとしか認められないような性交又は性交類似行為をいうものと解するのが相当である。けだし、右の「淫行」を広く青少年に対する性行為一般を指すものと解するときは、「淫らな」性行為を指す「淫行」の用語自体の意義に添わないばかりでなく、例えば婚約中の青少年又はこれに準ずる真摯な交際関係にある青少年との間で行われる性行為等、社会通念上およそ処罰の対象として考え難いものを含むこととなつて、その解釈は広きに失することが明らか」(福岡県青少年保護条例事件・最大判S60・10・23刑集39巻6号413頁)

簡単にまとめれば真摯に相互に信頼をもってとか相互に主体性を持ってるなら淫行とは云い難いけどそうじゃなければ淫行ってことになります。で、未成年に対する淫行がどうして罪に問われるかっていったらさきの最高裁判例の語句を引用すると「心身の未成熟や発育程度の不均衡から精神的に未だ十分に安定していないため性行為等によつて精神的な痛手を受け易く、またその痛手からの回復が困難となりがちである等の事情にかんがみ、青少年の健全な育成を図るため青少年を対象としてなされる性行為等のうち、その育成を阻害するおそれのあるものとして社会通念上非難を受けるべき性質のもの」は罪に問うべきではないか、ってところからきてます。
児童福祉法違反でつかまり「何も知らないので調教しやすかった」というような供述をしてるので、中学生を自分のおもうままに人形のように扱いたいと思って非難を受けるような淫行行為をしてたのではないか、と推測します。


気になったのは相手を調教しようという「どこか相手の主体性とかそういうのを無視するスタンス」です。今回はそれが未成年に対してできた点もひどく引っかかるのですけども。あーこれがたぶん自分しかその場に存在しない「他人が居ない心象風景」なんかなと感じたのですが、でも相手のことなんか兎も角自分にとって都合が良ければいいって思ってるはずの人ならわりと居るよな、なんて思いました。また実行に移さなきゃ別に問題ないないのですが女児や学生服を着た男子学生が登場人物の監禁とか調教モノのアダルトなマンガやゲームがコンスタントに市場に出回ってるのをみてると、内心に未成年に対するある種の醜悪な・暴力的なものを振るいたい欲望って多くの人が抱えてるんじゃないか、それがたまたま今回表面化しただけで同じことしたいとどこか思ってる潜在的な予備軍ってわりと居るんじゃないの?っておもえるんすけども。

分解すれば平気でそこらへんに転がってる要素がこの事件にはつまってて、ひょっとしたらまたどこかで同じことがおきそうだな、っていう漠たる不安を感じさせます。そういう社会がどこか悲しいのですが。



捕まった被疑者はあらいざらい語ってるようなのですがもちろんゲスな勘繰りをすれば積極的に罪を認めて情状酌量等を引き出したいのではって疑えますが、たぶんいくばくかの良心の呵責が被疑者にあったのではないか、と思いたいです。

以下、余談です。
セックス関係が自分の主体性が発揮できそうでなおかつ他人が振り向いてくれる最大の武器である、とおもうから(そう思うのは自分の問題でもあるんすけど、一時期の私にとってはセックスが自分の思いどうりになりそな、最たるもんだったんすよ、まったくの幻想だったわけですが)だから未成年が場合によってはセックスに誘われてしまうとついていってしまいがちなんではないでしょうか。今回の事例は誘ってた相手が主体性をはなから否定してて継続的に性的暴力をふるってたのが悲劇的で、さらに同性間のことでなおかつ下半身のことゆえに誰にも相談できなかったのではないか、なんて思うのです。なんだかほんと考え込んじまうのですが。
(以下後日追記)
被疑者がちょっとでも真摯に向き合ってた時期があったんじゃないか、っておもいたいのと、関係を自発的に断ち切れなかった中学生を責めるつもりにはなれないっす。