教養の有無(後日加筆)

ヒエイはそんなこといわない、ってのがあるのですが判らない人にはまったく判らないことばで(よい子のみんなはぐぐらないでね)知ってる人は知ってるけど知ったところでしょうがない、ほんっと知らなくていいムダ知識です。たぶん知ってるであろう相手にこの発言をあるタイミングでしたらうけたことがあったので、私の場合は死蔵のムダ知識にはなりませんでした。が、それ以降つかったことがないのでやはり限りなく死蔵に近いムダ知識かもしれません。
教養の何割かもほんとムダ知識だと思います。
教養のある清少納言のエピソードで、雪の日にこれまた教養のある中宮定子が気まぐれに「香炉峰の雪はいかならむ」と問いかけ、白居易漢詩のことをいってるのだと判って「香炉峰の雪は簾を撥げて看る」のフレーズをとっさに思い浮かべて御簾を高くあげてみせた話がありますが、この話は同じくらいのレベルの教養の人が持ち合わせてる教養という名の傍からみるとどうでもいいムダ知識を利用して真剣なちゃんばらをすると面白いってことの証明みたいなものだと思ってます。清少納言と定子がすごかったのは相手を信じて話を振ってそれに見事にこたえたところです(ただこのエピソードを「あたしこんなふうに褒められたのー!」とばかりに枕草紙に書く清少納言という人は個人的にトモダチにはなれそうにありませんけども)。


この前松江へ行ったときにやはりちょっと教養のありそな宿屋の人としゃべりはじめて初対面の相手から酒をおごって貰うほど深い話をしたのですが、そのとき軽くジャブを喰らいながらも脳が高回転し文字どうりのイミテーションじゃない真剣なちゃんばらをやってるような経験をしました。そういう経験は四国巡拝中もありましたし会社関係でもそういう会話が成立するときってあって、自分と同じくらいかもしくはそれ以上の教養、知識、経験とかを持つ人と会話をすると個人的にはほんとに実になったり面白いなーと思える経験が多いっす。真剣なちゃんばらが成り立つには相手と能力が拮抗してなければつまらないわけで、道理ではあるんすけど。


教養のある人との会話でよい経験をするとやはり教養って無いよりあったほうがいい、と思わされます。でも何かを知ってるだけではダメで、たぶん教養の本質のひとつは知識を知ってるかではなくってその知識をつかってどれだけ器用に会話で自分が楽しめるか・相手を楽しますことができるか、だと思います。そのとき相手が同じくらいのレベルなら、なおの事が楽しめるんだと思う。
余談ですが教養という言葉をセックスという言葉に、会話という言葉を身体に変えてもなんだか通用しそうです。つか、ピロートークが巧い男ってそれ以外も巧い確率って高そうですし、内容が濃いよな会話って、同じテンションとか体温を持ってると成立しそうな気がしますから、あながち間違ってないんじゃないか、なんて愚考。