新聞社でバイトしててそういう職業柄ある程度時間を守らなければならない約束を守らなければならない、ってのがあって、遅れたらヘタすりゃことが進まないし他人に迷惑がかかるっていうことを目の前でみちまって、それまで高校の朝の遅刻になるか否か位しか時間を守ることを考えたことがなかったので印象が深く、ものっそ自分に影響を与えています。社会人になっても同じくらい時間を守らねばものが進まないところに行っちまったので変わらなかったです。でも無意識にプライベートでも適用しちまってて、自分でも時間を守るってことをひどく気にしてて、待ち合わせなんかの時間に遅れると数分であってもほんと申し訳なく思ったりする。そんな細かなこと気にしなくてもええやん、っていえばそうで、云われもしたのですが。
時間に限らず、なかなか細かいこだわりって抜けないです。


こまかいことを気にしなかったりとか、こだわるものはなければないほど生きやすくはなる気はします。およそ人と摩擦が起こりにくくなるでしょう。
仮にデートの約束の時間に間に合わなくても逢えればいいっていえばそうなのです。相手が遅刻してきたとき、デートのためにテンションあげてたのに焦らされた、っていう「おあずけ」感さえなんとかなればなんとなかる。ケンカにはなりません。
つまるところ、起きたことをたとえ気になっても問題としない態度をとる、もしくは問題を問題と思わずに見過ごせばなんとかなったりします。受容の立場なら。
もっとも、まったくもやもやしないって云ったらうそですが。

自分がこだわることを止めてしまうとさらにもやもやします。例えば、大根の面取りなんかしなくたっていいのかもだけど、やらないとやり残した感が残りるようなそんな感じです。不完全燃焼で論文を書いて提出しちまったときの後味の悪さにも似てます。
何を大切にするかによるのかも、ですが、自分が他人との摩擦を避けるために自分自身でやるべきことをこだわることを放棄したとき、それまで身のまわりにあった見えない何かが崩壊するのが怖かったりします。それが信用であったり対外的評価だったり、です。それと、即下半身に結びつけるって言われるのを承知で云うとちゃんとほぐさないとダメなのにそれをしないと痛いはずで、それがなんとなく判ってるから人付き合いでもなるべく摩擦回避の省略をしないんですけど。


でも、たまーに、こだわりって、めんどくさくなります。
かといって、こだわりってなくすともやもや感が増すので、なかなか切り捨てられないのですけど。