欲しいがいえない

楽天の野村監督が回顧録を書いててそれをチラ見してて興味深かったのは、阪神電鉄の幹部に何がして欲しいかを聞かれ補強を要求するものの抽象的なことしかいえなかったのだけど後任の星野監督は具体名を出して「だれそれが欲しい」と要求していたときかされた、しかしそのときはどうしてもそんなふうに出来なかった、なんてことを書いてたのです。育ちの差、と野村監督はたしか書いてたはずなのですが、私は違うと思う。


プライドです。


「なにが欲しいの?」っていわれたときに、その意思表示を出来る人と出来ない人がいると思います。モノが欲しいという浅ましさを表に出すことが出来るかどうかです。出来ないのはプライドが邪魔をして自粛しちまうせいでしょう。野村監督が出来なくて星野監督が出来るのは勝つためにプライドを曲げることが出来る、星野監督の闘将というキャラクタゆえのことと思います。


プライドを曲げるってことはかなり難しいことだと思います。特に男はそうなんじゃないかと思う。


私は何の因果か抱かれた経験のほうが多いですが、「抱いて」・「欲しい」とかいえるかっていったら、なかなか云えないです。正直プライドがかなり邪魔します。女の子がキャミソールを脱ぎながら「抱いて」と言ってたら全然かわいいものですが、タンクトップを脱ぎながら男が自分から「抱いて」・「欲しい」と言うのはものっそ難しい。何のことはない、そんなこと男は云わないからって考えてるからっす。私は自分のことを「男」と認識しています。ついてるものもついてますし、戸籍上も男です。男だから男としてのプライドってのがあります。でも、それは自分の奥底から出てきたものかどうかって云うと怪しくて、世間で云う「男」という記号のようなものを基に考えてることでもあるんですが。それに捕らわれてるといえばそうなんすけどその脱却も難しいっす。


そのプライドを曲げなきゃいけないときってあります。特に恋愛の最中はそうじゃないか、とおもうのです。相手が忙しいってわかっててるので聞き分けのないわがままととられるのではないか言う不安を抱えながらびくびくしつつ逢えない?と打診したり、風呂に入る前に見られても良いような勝負パンツを穿いてスキモノと誤解されても良いやという覚悟の元脱いだ後も一言が云えないからわざとそばに寄ってくっついて誘惑する。そうしないと、欲しいものは手に入らない。プライドを曲げてもおもいどうりにはすすまないかもしれないけど、そこに賭けなきゃはじまらない。ときとして浅ましい自らをさらけ出すことに恍惚感を感じてたって言ったらアブナイ気もしますが、プライドを捨てたり曲げるストレスやしんどさはあるけどプライドをまげてまで参加するその博打でもって泣きたくなることもあったしものっそ甘美なリターンに身を任すこともありました。その甘美なリターンが身に沁みてるので、次の恋を、なんて浅ましい自分が出てくるのですけど心理内野党が「プライドを曲げるのは男としてどうよ」と強硬に主張します。心理内でねじれ現象が起こってます。ですからこう着状態でちょっと前に進めていません。


賭け、とかいててうっすら思うのですが恋愛自体がどこかたぶん博打にちかいかもしれません。ある種の覚悟をしないとやっていけないし冷静さを失うからです。財産を失うわけではないかわりにプライドや時間や自分の持てるものを捨てる覚悟で賭けて相手にぶつかり、なんで何千年も人が現を抜かすというか熱中するかはじめて判った気もしました。
経験値上がってるからもうちょっと賢くなるぞ、と内心思うものの、いざ、その博打の場に立ってみたらそんなことお構いなしで冷静さを失うのは目に見えているんですけどね。
そしてまた「欲しい」のひとことが言えなくて悶々としそうな気がします。


エリック・サティという人はひょっとして、そんな博打を何度も経験して何か突き抜けてしまったのかなー、とおもうのです。
どこかのほほんとした求愛のメロディを聴くといつかこんなふうに軽やかに(けどどこか切実に)云えるようになるのかなー、とおもうんすけども。
エリック・サティ作曲「あなたが欲しい」

Marie Devellereauという人が歌っています。