佐世保の事件

ちょっと前になるけど佐世保のスポーツクラブで起きた銃乱射事件っていうのは、ショックでした。ひょっとしたらショックの捉え方が他人と違うかもしれません。最初は何でショックだったのか判ってなかったですが。


で、犯人は長崎県というカトリック信者が多い土地で幼児洗礼を受けて就職してからは教会に行かなくなったものの、自らの命を絶つ場所としては洗礼を受けた教会を選びました。たぶん最後の最後は信仰がよりどころだったのだと思います。悔悟の念があって教会へ行ったのかどうかとかはわかりませんが(でもせめて犯行後に悔悟の念から教会へむかったのではないかなーと、うっすら思いたい)。
なにがショックだったかといえばなんで犯人は犯行前にキリスト教に救いを求めることをせず猟奇的犯行にいたったのか?とかです。苦しいとき、信仰と言うのは無力なんでしょうか。犯人にとっては無力だったのかな、と思うし、その事実がなんだか信仰にどこか力を求めてたほうからすると改めて否定材料を突きつけられたような感じなのです。ショックというかなんというか。


私は仏教徒として必ずしも私は敬虔ではありません。信仰と日常生活の乖離があります。日々の生活を誠実に生きつづけることすらできてなく、別の宗派とはいえ不真面目人間からすると信仰一筋でない犯人がなんだか他人事とは思えなくなってきた。佐世保の事件は、ひょっとしたら明日自分もああなるかもしれないっていう、敬虔な信仰をもたない自分の将来の姿の可能性もあるわけで、それに気がつくのにちょっと時間がかかりましたがそれもやはりショックでした。