前からあったのかもだけど週末に電車に乗ると、子供を座らせて親が立っているのを見かけるようになりました。どうでもいいですがそれに違和感感じるんすよ。というのは、子供の頃は親が座って子供はその前に立つというのがあたりまえでした。けど、いま、そうじゃない。
さっき、勤務先から帰る時に電車の中で数駅で降りるのに座りたいと愚図りだした子供がいて、で、察して若い女子高生が席を子供に譲ったのだけど、見事に子供を座らせて親が立っている光景になった。他所の家のことまで口出すべきじゃないけどほんとは親がほんとは愚図る子を叱って欲しかった。愚図れば何とかなる、っていう体験に味をしめたら、たぶんそれが染み付くと思う。大人になってもその根性が変わらない人が居るはず。駄々こねればとか、こうすれば周囲は動いてくれるはず、なんていう軽薄に考える人はいるので。
他所の家の子なんて知ったこっちゃないけど、我慢を覚えさせずに甘やかす、というのを見て、いろいろ考えちまったのですけども。
もちろん子供がかわいいからの、行為だとおもうんすけどね。
愚図るとは違うけど、よく、地団駄踏む子供がいるじゃないですか。買って買って!と叫ぶの。たぶん、万能感がある子供が、もしくは容易に手にできた子供が地団駄を踏むんだと思う。「買ってくれてあたりまえ」なのにそうじゃない現実を目の当たりにして、万能感があるから欠けたのが不満で泣き叫んだり地団駄を踏むのではないかと思います。で、泣けばなんとかなるんじゃないか、ってのがあって、ごねるはず。
たぶん、私が感情の吐露がはしたないと思う原因は、子供のころ行った近鉄のおもちゃ売り場にあったとおもいます。あまりごねたりしたことがないらしいのです。「自分の思いどうりにいかなくてもあたりまえ」ってのがどこかわかっていたのだとおもうけど地団駄を踏むっていうことが無駄、ごねてもなんともならないってことを察していて、近鉄でごねてる同じくらいの子供を見てどこかはしたないっておもってた。ごねてもなんともならない、ってのは裕福じゃなかったのと親が厳格だったからだと思います。また、万能感とも無縁でした。目が悪かったからです。小さい頃から世界はピントがあってなくてあたりまえでしたし。
「自分の思いどうりにいかなくてもあたりまえ」ってのがわかる子供は、私のようにどこかひねくれたかわいくない大人になる可能性も秘めてますが、多くの場合他人との協調性を覚えたりとか、耐性を持ったりとか、生きてく上で重要なことを肌を擦りむきながら覚えていくと思うのです。違うかなあ。
イマイチまとまらない文章ですいません。