「わかる人だけがわかってくれたらいい」というスタンスって云うのがあるじゃないっすか。けどそれはどこか「良さがわからないのは分析力がないのだ」っていう他人に対する転嫁があるんだとおもう。「嫌なら見なきゃいい。文句があるなら出てけ」っていうのも同じかもしれませんけど。あんたは私が受容できない狭い人間なのね、って言う転嫁なんかなとおもいます。また、何かを指摘されて怒る人っていうのもそうでしょう。「どうしてスルーしてくれないの、恥をかかせるような気の利かない人なのね」っていう転嫁かと。



もっともこの転嫁ってのを無意識のうちにやってて自分のいやらしさにげんなりすることもあります。
で、転嫁したほうが楽なのです。自分を棚に上げて発言できるから。ただそう云うスタンスにどこか反発があるのです。なんでそういうスタンスに反発を感じるんだろうっておもったのは、なんのことはない、社会には「他人に転嫁が出来ない状況」があるっていうのを基準にしてるからです。
例えば訴訟の準備書面や企画書、報告文書とか行政文書なんかのときに「わかる人だけがわかってくれたらいい」って云う書類を書いたらアウトなんすよ。裁判官や上司や役所はそんなもの認めてくれないんすよ。テメエのリアルやブログはどうなんだ、わかりやすく書いてるか他人に対して説得力有る文書を書いてるかって言われると心もとないし恥じ入るのみなんすけど。




社会には他人に転嫁できないっていうルールがあるにも関わらずそのルールはここでは通用しないし私基準のルールがあってあんたが悪いっていう、開き直って相手に転嫁するというシステムに直面するとカチンとくるのかもしれません。
ただ他人に転嫁することで自分は悪くないっていうプライドは保つことは出来るわけで、人によってはプライドを保つっていうのはそれは重要なことなんかな、というのはなんとなくわかるのです。プライドを保つってのはほんと厄介でそれを考えながらの人間関係ってめんどくさいのですが、けど人間嫌いになれずなんとかやってるんすけど。