四国の森の中へ


よく四国へおへんろに出かける人は「お大師様に呼ばれて」という言い方をします。行きたいとおもってもなかなか都合がつかずに行けないときには「お大師様の導きがなかった」というような言い方をすることがあります。ある意味他力本願的な逃げの言葉に聞こえますがあながち間違ってないような気がしてなりません。今回、5日くらい休みをとって行こうと思ったのですが5日は諸般の事情で無理となって、けど今行かないと後悔するかも知れないなーと考え、3日ほど四国へ行ってました。
3日でもお大師様に縁あって呼ばれたんや、それでええやん、と自分を納得させたのです。以下その記録です。


第一日目
前日夜行バスで東京をたち、松山に着いたのが朝七時で、松山駅から特急に乗り継いで前回歩いた卯之町から今回はスタートです。九時を過ぎてました。


卯之町の町並みです。古い町で、古くからの屋敷などもあるんですけど、観光客と思しきひともおらず、地元の方もあまりらっしゃらず、どこかひっそり。
国道56号線を北上するのですが途中までは国道を歩かず旧道を行きます。といってもすぐ国道に合流しちまいました。この写真を撮った二キロぐらい先でしょうか。で、国道56号というのは松山へ行く幹線道路です。トラックや乗用車はばんばんとうりますが、人はほとんど見かけませんでした。木材関係の会社とロードサイドの店はちらほらありましたけど。
新鮮だったのは沿道に愛媛の豊予海峡を挟んで対岸である大分へのフェリーの看板があったことです。九州に近いんですね。そういえば、春先に宇和島で見たスーパーの鳥南蛮弁当が甘酢あんかけじゃなくって九州と同じタルタルだったよな、と一人納得してました。


順調に歩いていたのですが峠を越えるのに旧道へ行かずに時間を稼ぐためにトンネルへ入っちまいました。鳥坂峠トンネルというのですが、歩道がないのです。や、正確には白線は引いてあるのですが独立してないんです。歩道は壁から50センチあるかないか。峠をあるいて越えるのは他所から来た人間がほとんどで拡幅しよう、という機運もないと推測しました。
で、肩の先20センチくらいのところを幹線道路ですからしょうがないのですが鮮魚輸送のトラック、材木運搬のトラック、土砂を積んだトラックがばんばんひっきりなしにけっこうなスピードでとうり過ぎていきます。リュックがあるので接触してはねられるのが怖くて後ろを振り向くわけにもいかず、ものすごい轟音とともに大型車がすぐそばにとうり抜けて行くのですが、ちと恐怖でした。
一キロのトンネルをとうりぬけたら、トンネル壁にこすれてたジーンズやシャツが煤煙で汚れちまいました。

トンネルを抜けると、四国山地、俗に言う中央構造線の山々が見えてきます。向こうに見えるのはたぶん大洲です。前回は海辺が多かったですが今回はずっと山の中。


写真のところからだいぶあるいて伊予大洲市内です。予備知識がなかったので、おお!お城だとびっくりしました。この天守閣は何年か前に再建したものらしいです。伊予大洲は城下町です。小京都と呼ばれるほどの町ではあるようです。

同じ肘川の橋の上から反対側の旧市街を眺めた写真です。で、おはなはん通り、といった古くからの町並みを残した市街地があるらしいのです。まったく興味がなくってスルーしました。産業設備とかの遺跡ならどうしようかと思ったんですが。


大洲市内でもう一枚。蓮の花でしょうか。向こうに見える山は「冨士山(とみす)」というらしいです。
私ははじめて四国に来たとき鳴門市内でこの蓮の花咲く一面の畑を見て軽くカルチャーショックを受けたことがあります。モネの睡蓮の花の絵は知ってましたが、ああこういう景色がほんとにあるんだと四国ではじめて思い知ったからです。それと四国は身近に花に満ちている気がします。もっとも私が不勉強で知らないだけで実は日本中どこでも花に満ちてるかもですが。このあと大洲市内を抜けてマルナカというスーパーを見つけてパンを買い遅い朝食兼昼食をとりました。




番外札所永徳寺です。八十八の札所とは違いますが、弘法大師は八十八ケ所以外にも数多くの足跡を残していてそれらは番外として二十の札所があり厚い信仰を集めてきました。ここはそのうちのひとつです。大洲の外れにある十夜ヶ橋のそばです。


永徳寺と橋の下がセットでひとつなのです。えっと、橋の上は国道です。
大洲で宿を得られなかった弘法大師が一夜を橋の下で過ごした際に寒くて眠れないので十夜に感じたという伝説の残る橋です。なおこのことからお遍路は大師の眠りを妨げぬようにほんとは杖を橋の上では突かないことをマナーとしています。よくみると石仏のお大師像に布団がかぶせられてます。いまでも修行のために橋の下に泊まる人も居るそうです。


途中、内子という町の入る手前で行脚中とおぼしき雲水に見える方と縁があって雑談しました。真言宗が雲水という言葉を使うのか、そして行脚というのかわかりませんけど。表情は柔和なんですけど確固たる芯があるような、そういう感じの方でした。こういった人とざっくばらんな話が出来るのも四国の醍醐味かもしれません。


や、実は本心は雑談だけじゃなくっていろいろ僧籍を持つ人に訊いてみたいことは沢山あるのです。ひとつは、死、というものにどう対峙すればいいのでしょうか?なぜかは判らないけど身の回りにわりとがん患者がいたりします。私はいったい何をすればいいのでしょうか。「頑張れ!」と励ますのがベストなんでしょうか。私が病気ではないけど、しんどかったとき、頑張れ!と言われても役に立たないことがありました。そんな言葉が響かないし役に立たないし効きもしないギリギリの状況の人間はいます。言葉は役に立たないことがあります。そこらへん悩むのです。
えっと、出かける数日前にすい臓がんの方の通夜に出てて近親者の方にあったばかりでした。私は何の声をかければよかったのでしょうか。

それ、人間の浮生なる相をつらつら観ずるに、凡そはかなきものは、この世の始中終、幻の如くなる一期なり。
されば未だ万歳の人身を受けたりという事を聞かず。一生過ぎ易し。今に至りて、誰か百年の形体を保つべきや。我や先、人や先、今日とも知らず、明日とも知らず、おくれ先だつ人は、本の雫・末の露よりも繁しといえり。
されば、朝には紅顔ありて、夕には白骨となれる身なり。既に無常の風来りぬれば、すなわち二の眼たちまちに閉じ、一の息ながく絶えぬれば、紅顔むなしく変じて桃李の装を失いぬるときは、六親・眷属集りて歎き悲しめども、更にその甲斐あるべからず。さてしもあるべき事ならねばとて、野外に送りて夜半の煙と為し果てぬれば、ただ白骨のみぞ残れり。あわれというも中々おろかなり。されば、人間のはかなき事は老少不定のさかいなれば、誰の人も、はやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏を深くたのみまいらせて、念仏申すべきものなり。

「白骨の御文章」

宗派は違えども、浄土真宗安芸門徒はよくこの白骨の御文章を唱えます。この文言を私は井伏鱒二の「黒い雨」で知りました。主人公はピカドンのあと、最初は会社命令で義務的だったけどそのうち自然とこの文章を読めるようになります。何かがあったとき、浄土真宗の人たちは念仏を唱えるのでしょう。浄土真宗の勉強をほとんどしてませんが。で、末尾の念仏を唱えるべきである、という結語に納得がいくかどうかは人次第でしょう。一大事が何なのか、一大事がどうすれば解決できるのか、解決したらどうなるのか、という問題もあるかもですけど。


抽象的に云えば「自分は目の前の人のために何もしてあげられない」と思うことが多かったりします。そのとき、やはり祈るしかないのでしょうか。悲しんでいる人を見過ごすことができないとき、その人のそばで祈るしかないのでしょうか。仏教は随分と「はがゆい」ものだと思うのです。私は四国に勉強しにやってきたつもりです。これくらいの質問を誰かに、それも僧籍のありそうな人にぶつけてみたい、とおもうんですけど、もうちょっと遅く結願のあたりにでも訊いてみるべきかとそのときは考えました。なによりも質問するにも仏教への理解が浅いから、ってのがあります。





内子へは四時前に到着しました。重要文化財を含む伝統的町並で有名です。かつては生糸生産や蝋燭の産地として栄えたそうですなんですけども大きな町ではありません。

実は内子ではちょっと見ておきたいものがありました。内子座です。取り壊される寸前だったものを篤志家の寄付と市民の浄財でよみがえらせた劇場です。これをみたいがために時間を稼ぐため大洲で観光しませんでした。

大正時代の建築の築91年の現役劇場です。もっとも公演数は限られてますけども。

木戸口です。看板がかかってます。演目は鳴神とか勧進帳とかのメジャなやつがかかってました。なお、去年中村勘三郎襲名披露公演をここでもやったみたいです。ポスタがまだ残ってました。


内部を見てみましょう。「芸於遊」という額がかかってます。芸において遊ぶで合ってるのでしょうか。一階の客席の平間は桝席になってます。

舞台を見てみましょう。えっと、円形の廻り舞台になってます。回転することが可能です。場面変換が容易になるわけです。中央に三角の木の目標が立ってますが、あの部分が実は穴になっています。穴にすとん、と、隠れることが可能なようになってます。



これがその穴の部分の下です。せり上がりも出来ます。機械ではありません。人力です。で、例えば狐の役の役者がここからぴょーんと出て行くときにつかいます。

円形の廻り舞台の下です。床下のことを演劇の世界では奈落というはずです。普通こんなとこはいること出来ないのですが、ここは可能です。
で、廻り舞台も人力で廻してました。丸太が見えるの判るでしょうか。


舞台から大向とよばれる二階の客席を見た写真です。これみると判ると思うんですけどあまり広い小屋じゃなかったりします。

ちょっと見づらいかもしれませんが、天井と照明が大正を感じさせます。

これが賑わってるのを想像すると、なんか面白そうだなーとおもうんですが、客席と舞台との一体感がたぶんあるんじゃないかな?とおもいます。



閉館時間ぎりぎりまで30分ほどしかなかったのですがほぼ貸しきり状態で見学してきましたです。いままで観光を自粛してきたんですがちょっとぐらいの観光ならいいかな、と、こっそり思いました。ここへ来ることはよほどのことがない限りチャンスはもうないかなーと思うので。






第二日目

二日目は朝4時に起きて5時前には宿を出ました。
実は前日泊まった宿屋で、内子から次の目的地久万高原町まで一日で歩けるだろうか?という相談をしました。すると歩けないことはないけどこの時期はきついかも、という返答がありました。実は久万高原まで35キロあって、そのうち、四国山地の中の峠越えが二箇所です。食べる店はありませんし、宿屋も後の方20キロ近くありません。最悪途中で動けなくなったら山中で野宿、というパターンです。助言があって35キロを二日に分けるか、途中14キロ地点の突合という集落までバスを使うか。で、私はバスを使うことを選択しました。ほんとは歩きたかったのですが。

ところがバスの便数がほとんど無いのです。朝7時半の後が11時までない。

実は寄りたいところが内子ではもうひとつありました。内子中心部から10キロ離れた大瀬というところです。愛媛ゆかりの大江健三郎は内子の大瀬の出身です。運よく、遍路道沿いに大瀬があることがわかりました。
大江健三郎という人は生に対峙した人かもです。
「自分は目の前の(水頭症の)息子のために何をしてあげられるだろうか」ということからコミュニケーションの介添えをしてやろうと思いつき小説を書いて生きてきたけどもその息子(光ちゃん)が自分で作曲した音楽で社会を結びついた時点で自分の小説の役割を終えた、と考えて小説を一時書きませんでした。私が学生時代の頃の話です。その報道を見たとき、そうか、文学って人によっては音楽に負けるのか、と思い知らされたことがあります(文学が音楽に勝てなかったことを世間に対して証明したという点である意味で大江さんは文学者として稀有な存在でしょう。いま、いや文学は音楽に負けないでしょ、という文学者がでてこないところがつらいとこですけど)。で、好きだった人が大江健三郎を読んでいた、という側面もありましたが気になる作家で、幼少の頃、どういうところに住んでたのか見てみたかったのです。内子へ来ることがこの先あるかどうかわかりませんからチャンスだし後で後悔したくないから寄るべきか、とおもったのです。
思案の結果、朝早く出て10キロ強ほど歩いて大瀬まで行き、そこで大瀬の町並みを見学してからバスで途中まで行くことに決めました。バスに長い距離乗らないようにするためと、太陽が出て暑くなってへばる前に歩いておく距離を稼ごう、という作戦でもあります。



午前5時過ぎ、内子の街中を歩きます。




で、朝もやのなか、2時間ほどかけて大瀬につきました。若き日の大江健三郎は一生のうちにさそり座の全体を見たい、と夢みたらしいのですが、たしかに山の中に大瀬はありました。
大江健三郎は自分の生まれた村についてこうも述べてます。念のため紹介しておきます。

「土佐の坂本龍馬が日本の坂本龍馬になるために京都へ行く。そのときに僕の隣の村を通ったのです。峠の別れ道へ行って、龍馬さん私の村に来てくれたら、きれいな娘もいるし美味しいご飯も出すから、うちの村の方へ来てくれ、と誰かが言った。ところが、いやそちらの村よりこちらのほうがよさそうだといって別の村への道を降りて行ってそこから船に乗って川を下っていったという話があった。あの坂本龍馬さえ寄らなかった村で生まれて文学になるものがあるだろうかとおもったですよ」
小澤征爾大江健三郎『同い年に生まれて』より

なお旧大瀬村役場がギャラリーと大江健三郎の紹介施設になってます。えっと、行ってみるまで知らなかったのですが、当然朝7時半に開いてるわけがありません。諦めます。

大瀬の中心地です。偶然、生家に気がつきました。人が住んでいます。もっともいきなり行ってもどこだかは判らないかも。
しばらく大瀬で佇んだあと、集落のはずれでバスを待ちました。そうすると高校名をつけたスクーターの編隊がとうり過ぎていきました。こちらは男ばかり。で、来たバスに乗ると女子高生ばかりでした。で、予定どうり突合という集落までバスに乗りました。突合から再度歩きはじめます。


森の中の国道を歩きはじめたはいいのですが、一時間半くらいまったく誰とも人とはすれちがいませんでした。集落はあるし、途中小学校もあったのですけど。で、車どうりも思い出したように15分に一回ぐらいとうってたのですがずっと川の音を聞きながら歩いてました。つか、人間誰一人として居なくて自らも黙ってると、何か歌いたくなる気がします。光ゲンジの「太陽がいっぱい」を歌ってた記憶があるのですが、海辺の歌を森の中で歌うほど可笑しいものはなかったりします。



10時過ぎに、三島神社というところで大休止して昨日のうちに購入していた朝兼昼のあんパンを食べていたら(ただしこのあんぱんをやっとこさ水でのみ込むくらい食欲が低下していた)地元の方と雑談になりました。善意を前提に遍路してる人が居るんだよねー、という話からいつのまにか政治の話になり、最後は植えていた栗の木が持ち主が高齢化で誰も収穫や手をいれる事が出来なくなり、したら栗の実を猪が常に食べるようになってしまい猪が異様に増えてしまったとのこと。連中は栗の実だけでは足らないらしく、馬鈴薯を全部やられてしまった種芋分もごっそり、とも。うーん、と唸ってしまったです。
棚田があったので思わず一枚↓。

畝々(うねうね)という不思議な地名の集落から傾斜を強めた道を一気に登り最初の峠、下坂場峠を越えました。下坂場峠から、いったん宮成という集落に出てちょっと休止しました。遍路のルートというのは不思議でして、急激に上がって下がる、というルートがけっこうあります。そこを通るものの精神を試すようなものかもです。ここも例外ではありませんでした。で、ここで地元のかたの接待を受けてからまた峠越えです。今度はひわだ峠(弘法大師が大洲からこの峠へさしかかったときにそれまで雨続きであったけどここでやっと天気になったので「よき日和りだ」と言われたらしく、「ひよりだ」がなまって「ひわだ」になっているとの事)でそこを越えると久万高原町の中央部でした。




久万高原の中央部からいくらか山にのぼると大宝寺です。

44番大宝寺。樹齢数百年の杉や檜木に囲まれた静かな寺です。44番ですから4が二つでしあわせの寺、とも云う人が居るらしいです。




実は思ったより早くついてしまいました。予定ではここらへんに夕方着ければいいのかなーと考えてたのです。バス乗らなくても良かったかもしれません。で、まだ2時すぎでどうしようかと思っていましたが、先へ駒を進めることにしました。ここで約8キロ先の宿に予約を入れました。大宝寺からはまた峠越えです。山道を上り、中腹まで下りた後、今度は幹線道路を進みます。ここで、同じ宿を目指す大津京都大阪からなる団体の歩き遍路60名くらいと合流しました。その中の中年夫婦のお遍路さんが声をかけてくれたのです。内子からバスを使いながら歩いてきたことを告げると、複数の方から氷砂糖、クッキー、黒飴他いろいろ戴きました。引率してる22回廻っている先達さんとも話が出来ました。
で、細かいアップダウンを繰り返しながら先へすすみます。

紫陽花が満開でしたってか、狂い咲きの様相です。どちらかというと、誰かが植えたけど、管理しきれなくなって放置!みたいな。

既に30キロ以上歩いてたのですがこの団体お遍路さんのペースに乗っかって何とか5時くらいに宿にたどり着きました。会話しながらだとなんだかなるもんです。およそ11時間半、39キロ。よく歩いたと思います。ただし、とうされた部屋で荷物を降ろしたとたん、クーラーをがんがんに利かせて5分くらいだらーっとしてましたが。


しかし、なんとか歩いたー、という奇妙な満足感がありました。宿は一応温泉つき。ゆっくりはいって身体を休めました。




第三日目



前日は洗濯をしたあと9時には寝てしまい、5時起床の6時出発です。なんか四国に居るときのほうが健全ですね。
写真は宿のそばの奇岩群です。



岩屋寺へは県道沿いに歩くのが一番近いらしいと聞いてはいたのですが、古くからの八丁坂という名前のの遍路道をルートとして選択しました。団体さんとは別行動です。団体さんと行動してもいいのですけど自分のペースで歩けないというのが難点です。ただ、どうでもいいことを含めて誰かとしゃべりながら歩く、ってのは、悪くは無いんですけど。
八丁坂は登りはじめが勾配がきつくて難儀ですが、尾根に出ちまえば楽にはなりました。ここもご多聞に漏れず、ムダに急坂を上がらせながらしばらくするとすとんと急に高度を下げ、といういままでの急坂なんだったんだ?という遍路の精神的ダメージを増幅するルート設定にはなってます。




45番岩屋寺です。この寺は岩山に囲まれています。本堂は岩山に沿うように建てられてます、というより、へばりついてます。写真は方丈です。本堂等をうまく撮れなかったのです。岩山は大きすぎてカメラに入りません。大師堂のすぐ上にある窟に梯子をたどって登るんですけど、ちょっと、どうしようかなー、怖いかも、というくらいの岩山です。


納経所では「納経はスタンプ収集のためではなくてご本尊さまに納めたお経を確かに受け取りましたという証です。しかと住職が取り次ぎました」というニュアンスの藁半紙をいただきました。そういうものを貰ったのは初めてでそれを見てちと考えちまい、どうともとれて、白いシャツにジーンズだからスタンプラリーまがいのちゃらい奴とおもわれたのかな、と思う反面、きちんと取り次ぎます、とも書いてあるのでそうはとらなかったのかもと思ったり(後にいろんな人に配ってるらしいと判明)。




またここには逼割禅定、というのがあります。岩の割れ目を鎖で登りまして、さらに岸壁を登り、またそこから岩にはしごがかけてあってはしごを上って上に行くと祠があって、そこから石鎚山が遥拝できるらしいのです。挑戦して命を落とす人も居るらしくあまりにも危険なせいか入口には鍵がかかってます。寺に着くまではこの際いってみようか、などと考えたのですが、実際寺の岩山を見てたら怖くなって止めました。5人くらい寺に遍路が居たのですが誰一人として行きませんでした。


寺を出て3キロくらい歩いたところで内子の手前であった、たぶん僧籍をもってる方と遭遇。覚えていてくれたのかずいぶんげっそりしましたねー、と心配される。また、雑談。そののち、今生でお会いすることは無いだろうけど、挨拶してから別れます。



昨日と同じ道を戻り、久万高原町の中心部を通って松山に向かう三坂峠へ。その途中で滋賀からきた中年遍路の人に誘われて食欲は無かったけど久万高原町役場のそばの食堂へ行きました。今回はじめてのご飯食です。
参考までに食べた主食。
一日目朝兼昼→蒸しパンとジャムパン、夕食→ゆだめうどん 
二日目朝件昼→あんぱん、白あんぱん 夕食→山菜そば
で、食堂で生臭もの断ちしてるので肉と魚がダメなので、と断った上で朝兼昼飯に野菜のてんぷらとかぼちゃの煮物、白飯をいただきました。



ところがこの野菜のてんぷらの油にやられたか、それとも疲労からか、飯を食べた直後に強度の吐き気が襲ってきました。へたりこむように途中のホームセンタの駐車場の隅で小休止します。落ちつくまでぼーとしてると、黒い小さなブルドッグがやってきてこちらを伺います。どうしたの?というところなのか、そこは俺のシマじゃ、どきやがれ、なのかはわかりませんが。
徳島阿南で、道に迷いそうなときに犬が先導してくれて迷わずに済んだことがあります。犬がお大師様の御使いかどうかはわかりませんが、ブルドッグとささやかにじゃれてたら復活してきたので再度出発しました。



標高差200メートルを9キロ弱かけて国道のだらだら坂を登ってるときのこと、一度軽くクラクション鳴らされてそちらを向くと、昨日一緒だった60人の団体さんがバスに乗ってすれ違うところでした。運転手さんがニヤニヤしてて、たぶん誰かが気がついたのでしょう。こちらから手を振ると窓から手を振る人が居ました。で、またクラクション鳴らされて振り向くと同じバス。もう一回手を振ると向こうもまた手を振りかえしてきました。
つか、なんなんすかね。この奇妙な連帯感というようななにか。不思議です。



久万高原町から三坂峠を通って松山に抜ける道はつい最近の高速道路ができるまで松山から高知への重要道路だったらしく、また、江戸時代からの重要なルートだったみたいです。もっとも坂本龍馬は高知から松山に抜けずに大洲の方へ行ったみたいですが。峠を越えると松山市に入り、国道を外れて山道を下りました。分水嶺を越すまえうっすら雨が途中から降ってたのですが、降りはじめる頃には止みました。今回何回も峠越えしてますね。


松山市はたぶん四国で一番人口の多い街のはずですが、松山とはいえ田園地帯ってか、水田地帯をくだります。





遍路墓です。死ぬまで四国を廻ってた人の最期や、途中無念の死を迎えてしまった人の墓です。
えっと、四国遍路というのは美辞麗句が多いですけど、実は修行のためだけではなくって、実は口減らしのために老人やハンセン氏病患者が四国を廻ることがありました(→松本清張砂の器がそうです)。彼らは戻るところがなく自分の生命が果てるまで廻り続けるのです。四国へ行ってた間に遍路道路と札所を世界遺産登録しようって言うことでそのための準備に入ってるらしいのでですが私はそれが観光目的のものであるのならばやめておいたほうがいいと思います。や、ちがう、そういった歴史を踏まえないで観光地化するような動きには反対で有ったりします。四国はフランスのサンチャゴ巡礼とは幾つかの点で私は違うと思っています。

午後遅くなってやっと次の札所が見えてきました。
46番浄瑠璃寺です。
最初の予定ではここまで行けないかも、だったのですが、寄れました。ぶれてるのは疲れてるからです。



47番八坂寺です。



今回はここまで。

長々と書いてきましたがお付き合いありがとうございました。身の回りに起きたこととか考えたこととか、四国は個人的にはかなり勉強になります。
いつこれるかわかりませんが、今回はお大師さんに呼ばれたとおもって、流れに逆らうことをせずほぼ行き当たりばったりで、来ましたです。今回もまた、強烈な体験をした気がします。


こういった経験がつめることを実は感謝しなくちゃ、かもです。

いま、夏休みです。このブログを読んで四国へ行こうって人は居ないと思いますが、もし居たら、微力ながら道中の安全をこっそり祈念しますです。