裁判員制度と被害者参加雑感(12日訂正)

考えかたとして裁判を現行のような法曹関係者だけが関与するものでなく、新しい司法制度をここで作ろう、という機運があります。たぶん、それが被害者参加制度であり、裁判員制度だとおもいます。


ちょっと時期がずれましたが被害者参加制度を含めて雑感を。
刑事訴訟法苦手なんすが被害者に優しくない日本の法律、という意見をきいてからその反論をうまく書けず「書いては消し」の連続だったんですが、法律を少しだけかじった人間として今の流れにおいて何を危惧してるかだけメモ書きします。


裁判員制度について
そもそも刑罰権は国家が掌握するというスタイルを日本はとってます。現行の刑事訴訟は有罪の立証は検察官の責任とされ訴追側である検察官と防御側の被告人と弁護人を当事者にして、双方に攻撃や防禦をさせた上で原則として公平な第三者である裁判所が公訴事実の有無を判断するという当事者主義を採用しています。これは私的な復讐だとか刑罰の行き過ぎを防止するためのシステムなのです。私的復讐を原則として日本は認めていません。何らかの犯罪を犯して、逮捕されたとしても、確たる証拠が無ければ「疑わしきは罰せず」というのが法律の考えです。限りなく灰色という場合にも、確たる証拠が無ければまずいのです。
話はそれますが弁護人は被告人の利益を考えます。誤解があるようなのでちょっと書いておくと弁護士は依頼者の利益になるように行動をしなくてはいけない前提でして、弁護人からみてもどう考えても被告人が犯人であるとおもうけど、被告人は無罪を主張しているという場合、弁護人は被告人の利益になるように行動をしなくてはならないとされています(広島の近郊で幼児が殺された事件で精神鑑定を要求した弁護士を批難するコメントを見たことがあるのですが、弁護士としては真実の追求とともに被告人の利益を考えるのでちょっとその批難は的外れなんですがわかって貰えにくい)。一方検察官の責務は、被告人に有利な証拠を上回る確たる証拠によって事件の真実を立証することです。裁判所がそれらを総合的に判断して処断してきました。
で、裁判員制度は罰則が死刑や無期懲役などの事件が対象ですが、市民に刑事裁判の審理に出席してもらい被告人が有罪か無罪か、法律用語がいうところの被告人が犯罪を行ったことについて合理的な疑問を残さない程度の証明がなされたかどうかという点を証拠物などを見て判断するのを市民に任せよう、というものです。ここでいう「合理的な疑問」というのは良識に基づく疑問です。冷静に考えて良識に照らして少しでも疑問が残るときは無罪として、ほんまに疑問の余地はないと確信したときは有罪と判断することになります。有罪の場合には、さらに、法律に定められた範囲内で、どのような刑罰を宣告するかを決めることになります。法律に関する専門知識は裁判官が提示しますが裁判員は裁判官と対等に議論して、証拠を目で見て耳で聞いて判断しなきゃです。選挙権がある人なら選任される可能性はあります。いままで公訴があったものについての事実認定を職業裁判官のみに委ねてきたのですが裁判員制度をわが国が現在導入しようとしていることの意義は事実認定等に市民の常識を反映させることであります。この理念自体は私は悪くないと思うのです。法学部出や法律を専攻した人間の思考はたぶん、ちょとずれが有ると思うからです。




被害者参加制度

まず、被害者が法廷で意見を述べることが可能かというと、限定で可能でした。

第二百九十二条の二 裁判所は、被害者又はその法定代理人(被害者が死亡した場合においては、その配偶者、直系の親族又は兄弟姉妹。以下この条において「被害者等」という。)から、被害に関する心情その他の被告事件に関する意見の陳述の申出があるときは、公判期日において、その意見を陳述させるものとする。
2 前項の規定による意見の陳述の申出は、あらかじめ、検察官にしなければならない。この場合において、検察官は、意見を付して、これを裁判所に通知するものとする。
3 裁判長又は陪席の裁判官は、被害者等が意見を陳述した後、その趣旨を明確にするため、当該被害者等に質問することができる。
4 訴訟関係人は、被害者等が意見を陳述した後、その趣旨を明確にするため、裁判長に告げて、当該被害者等に質問することができる。
5 裁判長は、被害者等の意見の陳述又は訴訟関係人の被害者等に対する質問が既にした陳述若しくは質問と重複するとき、又は事件に関係のない事項にわたるときその他相当でないときは、これを制限することができる。(略)
9 第一項の規定による陳述又は第七項の規定による書面は、犯罪事実の認定のための証拠とすることができない

たぶん現行法上、被害者等の意見は刑事訴訟法第二百九十二条の二で、公益的立場である検察官を通じて情状面に限って意見陳述を認められて、一部は訴訟手続に反映させることが可能ではあるんですが実務を詳しく知らないのでこれがどれほど役にたってたのかは判りません。

                 ↓

被害者参加制度:改正刑事訴訟法が成立 来秋にも施行
刑事裁判で、犯罪被害者・遺族が当事者に近い立場で被告人に直接質問できる「被害者参加制度」の導入を盛り込んだ改正刑事訴訟法などが20日、成立した。早ければ来年秋にも施行され、被害者らの権利が大きく拡充される。施行まで2年を切った裁判員制度とともに、刑事裁判の仕組みを大きく変えることになりそうだ。被害者参加制度は、殺人や強姦(ごうかん)、誘拐、業務上過失致死傷などの重大事件が対象。被害者らが希望して裁判所が許可すると「被害者参加人」として検察官の隣に座り、被告に事実関係を質問したり、証人に被告の情状について尋問ができる。検察官の論告求刑の後、法律の範囲内で量刑に関する意見も述べることができるようになる。
衆・参院では「被害者が感情的な質問をすることで法廷が混乱する可能性がある」「市民の裁判員の量刑判断に影響が出る」などの懸念が議論され、施行後3年をめどに制度の見直しを検討する規定などが追加された。民主党はさらに参院で、参加制度を「公布から3年間、裁判員裁判で適用しない」などを盛り込んだ修正案を提出したが、否決された。
(後略)

2007年6月20日毎日新聞より転載 


             こうなりました
                 ↓

第三百十六条の三十三 裁判所は、次に掲げる罪(→詳細は略)に係る被告事件の被害者等若しくは当該被害者の法定代理人又はこれらの者から委託を受けた弁護士から、被告事件の手続への参加の申出があるときは、被告人又は弁護人の意見を聴き、犯罪の性質、被告人との関係その他の事情を考慮し、相当と認めるときは、決定で、当該被害者等又は当該被害者の法定代理人の被告事件の手続への参加を許すものとする。
第三百十六条の三十八 裁判所は、被害者参加人又はその委託を受けた弁護士から、事実又は法律の適用について意見を陳述することの申出がある場合において、審理の状況、申出をした者の数その他の事情を考慮し相当と認めるときは、公判期日において、第二百九十三条第一項の規定(→詳細は略)による検察官の意見の陳述の後に、訴因として特定された事実の範囲内で、申出をした者がその意見を陳述することを許すものとする。

 
上の条文と違うのは事実や法律について述べることが可能、としてる点です。たぶん改正法のこの条文によって情状面と量刑について法廷で2回訴えることができることになるのだとおもいます。検察官と異なる意見や求刑を提示したりすることも可能になるはずです(法律の適用、とあるので)。


被害者参加は今まであった被告人と検察官の攻撃防御に被害者が検察側に加わる制度です。被害者等に検察官から独立して訴訟当事者又はこれに準ずる地位を認めることは刑事訴訟の構造を激変させるのではないかとたぶんあちこちの弁護士会で批判の声明が出てるはずです。メリットといえば被害者らはこれまで情状についてや証人等出廷して意見陳述をする機会はあるほか傍聴席に座って裁判の行方を見守ることしかできませんで、裁判から除外されていると感じていた人も多いはずでそれは解消されるでしょう。また被害者側が被告人に直接質問することで、検察側が示すことができなかった視点が見つかる可能性はあるかもです。
しかし前にも書いたのですが被告人にさらなる防禦の負担を強いることになります。被告人をさらに苛酷な状況に追い込むのでは?という気がしてなりません。
ほんと青くさい書生論的なことを云えば刑事裁判は被害者の私的復讐の為にあるのではなくて、真実を明らかにして社会通念上の正義に反した行為をやってしまって起訴された被告人の犯罪を冷静に分析して評価して与えるべき罪を決定するものであったりします。いまの刑事裁判手続きは真実発見のためのものでして証拠を付き合わせて起訴された被告人が犯人かどうかを判断するためのツールです。刑事裁判では原則断じて無実の人を罰してまずいので、それを避けるためのものです。建前として裁判で冤罪を生み出してはならないわけです。従って、常に被告人は無罪の推定を受ける前提になってます。私は被告人が犯人かどうかが分からない段階つまり犯人かどうかを判断する審議の過程に、被害者を参加させて証人の尋問や被告人への質問の権限を与えることが真実を発見したうえでの被害者保護になるとはあまり思えないのです。そもそも法廷における質問や尋問には、真実を発見するために、誘導尋問や誤導尋問が禁止されていたりします。その場に、たぶん感情的になりやすい当事者を参加させるということが私は危険な気がしてなりません(強制わいせつ罪の加害者と被害者が事件後はじめて相対したときなど、私はどうしても感情的になるんじゃないか?という気がしてならないのです)。訴訟の場においてもちろん理性的な被害者も居るとは思いますが、冷静な審理が常に可能なのか?というといまより冷静じゃなくなる気がするのです。感情をあらわにして被害者が質問を行う可能性も否定できないでしょう。逮捕され勾留され起訴されても基本的には被告人は『疑わしい人』であってほんとに犯罪者になるかどうかはしつこいようですが刑事裁判が終わって判決がでてから決まります。当然ながら、被害者は無罪推定の原則があるにも関わらずに被告人を加害者であると思い込んでいるのが通常です。で、検察官以外の者が独立して被告人を『疑わしい人』であるにもかかわらず加害者であろうという前提に立ち論告求刑等発言の機会を与えるというのは、ちとしつこいようですが合理的疑いを超えた証明がなされた場合に被告人の有罪認定がなされるという推定無罪原則の建前を空洞化へ導きかねずおかしいのではないかと思います。



○この二つが重なるとどうなるか
このままいくと、あなたが裁判員として任用されたときに裁判員は被害者と加害者が相対するところもばっちり聞かなければならなくなります。
裁判員はそれをきいて心情的に被害者に同情することとなりかねないとおもうのです。冷静な判断ができなくなりしないだろうかと思うのです。「被害者」と名乗る人間の追及に「無罪かもしれない被告とよばれる疑わしい人」が黙ってしまえば、裁判員の印象も違ってくるでしょうし。これで推定無罪という前提にって、思えますか?
えっと、しつこいようですが「被告人≒加害者」というのを裁判確定前に構図として決めちまっていいのか?です。被害者および弁護人はその構図を突き崩すためにいまよりもっと闘わねばならなくなります。


もちろん、いままでだって裁判時に最終弁論で情状酌量を求めるときなど被告人弁護側もうっすらと情に訴えることもあるんですが。




確かに被告人に黙秘権を認めたりとか、被害者に時として過酷な尋問をし(性犯罪とかです)、被害者の感情を逆なでするような刑事司法の構造も今までなかったわけではないでしょう。しかしそれは無実の罪の者を罰するのを回避するためのものであって、適正な手続を保障すると言う方向に役立ってきたのです。被害者参加がなかったのも真実追求や適正手続に資するものではなかったからだとおもうのです。憲法13条の個人の尊重についての条文を考えるときたしかに被害者が参加することは否定すべきものではない気がしますが、しかしながら被害者の救済が刑事裁判の第一の目的とは言い切れないはずで、ほんとにこんな改正しちまってよかったのだろうか?と漠然と思うのですけど。