実は没ねたが幾つかあって、赤ちゃんポストについての記事を廃棄しています。
たぶん、あれはとんでもねえものだ、と言う意識が多数派にあって、その主張がわからないでもないのですが、病院であるなら生命の危険に晒されてるわけじゃないので保護責任者遺棄になるのか?と言われるとそうでない気がするのと、悩ましいところですが危険な場所に遺棄されて生命の危険にさらされる乳児の命を守ることができることや、(300日胎内で育てておきながら放棄すると言うのはよほどだと思うんですけど)育てられない事情があるのであればそれを考慮したい、と言う病院の姿勢がわからないでもないのです。100%は賛成しかねますが、じゃあ反対かとは言い切れない。それを書くと、たぶん冷たい、子供を持つことが出来ないから云えるんではないか、とか批判が予想できて没にしました。ネットでやはり感情論剥き出しで捨てられた子がかわいそうだ抱きしめてあげたい、というのをみてなおさらそう思うのです。たぶんその人たちから見たら私は異端で、おかしい存在に見えるはずだからです。批判が来たらやだなーめんどくさいなーと思って書きませんでした。ひょっとしたら誰もコメントを書かない可能性は大でしたが。

普通の人ならスルーするところにたまに目がいくようです。また反対意見をどうも云いたくなるところがあります。それはもう10年位前からずっと気がついててたぶんこのブログの記事のなかでもそれは散見されると思います。
先日の離婚法の記事とて同じことで最高裁がああいってるのだからそれでええやん、と言われればそれまでです。同性愛者と異性愛者は人間を愛するところで同じやん、と言われてそうですね、と言えばいいのです。めんどくさくない。けど私はそれに違和感を覚えるのです。推定される嫡出子の問題も、そうはいってもねえ…と言われても、私は違和感がありますし、〜について判らないこともあると思います、と言われてもちょっとまってそれでええんかいな?と思ってしまうのです。
流されれば楽なんすけどね。差異なんか気にしなきゃいいのかもです。ほんとは。けどそれは出来ない。


で、多数派の意見が世の中のメインになることが多かったりします。基本的に世の中多数派や強者の枠組みなのですが、現実的には少数派は、およそ多数派への同化が精神的に強制されやすいのです。またそれが何べんも続くと、反対意見を形成する実は自分はおかしいのかな?ってことになったりします。少数派の自分がおかしいというような印象はどうしても拭えなかったりします。
感情論の押し付けほど個人的には気色悪いし怖い、と思えるときがあります。多数派の感情論は寛容ではないのです。異なる意見を認めてくれる可能性が少なかったりします。そう思わないほうがおかしいんじゃないの?というのがアリアリだからです。
多くの人が悪いと思ってることを悪いとは思えない自分はおかしいと言われてしまう事に対しての恐怖は結構あります。少数派を否定する事も自由であるとおもうんですが、口を塞ぐわけにもいきません。

自分の意見を批判されても、自分の正直な気持ちをなるべく理屈だてて表明し続ければ良いことだとは思うんですけどしかしそれはしんどそうなきがします。ものすごく暗い一本道を歩いてる感覚なのですが。私は書くことは、か弱い自我をズタズタになるのを承知で行うこと、と予想してましたが、書くことはほんとに自分を鍛えることなのかも、と思いはじめてます。