ずいぶん前に、民法の用語を「わかりやすくする」ということを目標に民法が口語化されました。「なんだか判らないけど法律は専門家のもの」といったのを払拭しようという意図を持ってます。新旧の条文をみていただけると判ると思うんですが、多少は判りやすくなってるのではないかと思います。また、難しい用語もやめよう、という動きがあって囲繞地(いにょうち)→その土地を囲んでいる土地、といった言い換えもされました。古い条文で記憶しちまった人間からするとなんだかなー、というのはありますが。


云いたいことがつたわらない、といった状況を改善するとき、果たしてどういったアプローチをとるか、といったら、ひとつはこの、民法のように言葉をわかりやすく言い換えて自分から相手の世界に合わせる、といったアプローチがあります。これの難点は正確さを犠牲にしなければならないパターンがあるのと、冗長になる可能性がある点です。

「ホットのアイス」
「どちらにしましょ?」
「だからホットのアイス!」
「コーヒーはホットとアイスがありますが」

三宮の高架下の店で笑いを堪えて、息を殺して聞いていた会話ですが、これもヒントになります。相手の云ってる言葉を矯正するパターンです。相手のいってることを自分の世界に強引に引き込むというか。言葉の定義のし直しみたいなものですが。これの危険なのは相手の機嫌を損ねる可能性を否定できない点です。



実は相互に作用して、はじめてある程度の意思疎通が出来ると私は思ってました。もちろんどれかがひとつ欠けてたって良いかもです。なんとかなります。
もっともこの考え方はたぶん古くて、あまり現在では場合によっては期待できない気がします。
というのは、なんとなくなのですが、相手が自分のモードに合わせて当たり前、といった風潮がある程度あるような気がしてなりません。自らアプローチもせず、受容のための努力もしないで、相手が歩み寄るのを期待して自ら動かないパターンです。
それは自分の価値観や言葉を判らない人は相手にしない、というスタンスかもしれません。何をいってるのかわからないときに問いかけてその問いかけに答えなかったりとか、ハナから他人の意見なんてきいていないの、という云われ方をしたりというのを体験するとその感が強かったりします。賛同者を集めて蛸壺的結合指向とか、自分だけの世界を構築して強要したりとか、異分子排除の方向へ、世の中は進んでるのかもしれません。


リアルでもネットでも、時間を割いてそこにいることや対話しようと思ってそこにいるといったことや、自分の立場や相手の立場、いわゆる社会という場を知らないばかりか考えようともしない人はある程度居たりします。
また、批判はいらない、他人は褒めてくれるか、単に自分をありのまま受容して肯定してくれれば良いという考えの人もいます。私は人間できてないですから、そういう空気を読むと反発するのですが。


私自身けっこう地味ながらも異分子を自認してて、故に拙いながらも自説を明らかにしたりとか云いたいことを判ってもらおうという努力をしていています。で、他人の意見などは非常に参考になるし訊きたいと思うのですが話が通じないこともありました。異分子であるがゆえの私個人の内的要因によってあるタイプの人とは話が通じないのかなー、などと思っていた時期もありましたけど話が通じないのは外的要因もあるんじゃないか、という気がしてきました。(ネット上の友人がある一文を読んで意味がとれず他にも判らない人が居たのでその感が強くなったのですがその文章はたぶん相手に判ってもらおうというものでなく、相手に歩みよらずにあんたにはわからないでしょう?という文章だったのではないかという気が今はします)。そもそも他人に判ってもらおう、という趣旨が念頭にない人もいる。そういった人を相手に私はあなたの話を聞く代わりにコメントしたい、というような希望を持ってたとしても、相手にその見返りを期待するのは、その気持ちの多寡に関わらず、危険な事だなあと思います。
たぶん馬鹿か阿呆のすることかも知れないでしょう。そしてたぶん私はその馬鹿か阿呆の可能性が高いのですが。


なんで人はブログを書いたり会話したり、コミュニケーションをとろうとするのでしょうか?
それはどこかにやはり、自分の考えを他人の目に晒す、という行為や、それに対するコメントなどを見て自分の立ち位置を確認して、というのがあると思います。また、自分以外の視点からみたものがものめずらしいし、新しいものの考え方やらなんやらを知ることが快楽である、というのもあると思います。
ただこれはあくまでも私の理想論であって、現実には褒める他人しか必要としない人も居るわけですが。
また、自分で歩み寄らずに誰も自分を判ってくれないと嘆いている人も居るでしょう。


まだネットや人付き合いに個人的に希望がもてるのは、懲りずにこちらが真摯に向き合って問いかけたら真摯に会話に付き合ってくれる人がまだ居ることだったりします。(繊細なのか)傷つくのが怖いけども、と断って上でも殻に閉じこもらずにきちんと真摯に対話に付き合ってくれる人もいます。顔を知らないし逢ったことも無いけど何を考えたりとかその真摯な対応が手にとるようにわかるのが嬉しいし、それはネットの醍醐味なのかなー、と思えてなりません。


ここ数日ネット落ちを真剣に考えていたのですが、もう暫らく残っていようかとおもいます。
ちとまとまりのない冗長な文章ですいません。