憲法記念日に考える憲法改正雑感

現行憲法は施行からそろそろ60年経ちます。
で、憲法を改正するか否かについてはほぼ決着がついてしまった感があります。明確に護憲を掲げる社民党共産党は衆参両院で完全に少数派になってしまっています。改憲論者が多い自民党がかつては平和と人権をアツく語っていた印象のある公明党を説得できれば、憲法改正を発議して国民に提示できる要件をクリアできます。つい最近衆議院で可決した国民投票法案は憲法改正に関するものであったりします。

憲法改正についての条項は憲法で明記されています。

第96条 この憲法の改正は、各議院の総議員の3分の2以上の賛成で、国会が、これを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない。この承認には、特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行はれる投票において、その過半数の賛成を必要とする。

というやつです。憲法には国民投票の有効投票の過半数なのか、全投票の過半数なのか、全有権者過半数なのか、最低投票率はどうかなどは、決められていませんからそれは法律に委ねられているということになり、国民投票法案を作る必要が有りました(ただ私は憲法制定時にそれら改正の手続法を作らなかったというのは憲法改正を国民が望まず事実上視野に入れてなかったわけで、その意思を尊重すべしという意見は実は傾聴に値すると思っています)。
で、今回の国民投票法案は最低投票率無しの有効投票数の過半数です。修正されないまま参院で可決すると、(第96条を条文通り解釈すると)投票率が50%とすると憲法改正賛成票が過半数の25%有れば何とかなります。結果として全有権者の4人に一人が賛成でも、憲法が改正されてしまうことは可能です。50行けば御の字ですが、これが40だったら5人に一人の賛成で何とかなってしまいます。それもまたどうか?とは思うんですが。

で、憲法改正が何で憲法で定められてるかといえば、社会や政治状況が変化するならば法もまた変わってしかるべし、という思想があります。
この60年間において変化が発生していてその発生した変化が憲法の根本にかかわる問題としてどうかかわっているのかを考えると憲法でカバーできない点があるのなら改正をしてもいいのではないか?というのは説得力があります。
実際、環境権やプライバシー権等の新しい権利に対応できてない現実があります。
また、黙秘権なんて憲法憲法38条1項で保障されてるはずなんすけど、事実上刑訴法上の解釈の「取調べ受忍義務」よりどうも下位にあったりします。きちんとそこらへんを議論しなおして改良すべきところは改良すべし、というのは傾聴に値すると思います。人権面においては特に憲法と現実の乖離はなるべく避けたほうがいいのは確かです。





憲法改正でどうしても触れざるを得ないのは、やはり9条の問題かとおもいます。憲法と現実の乖離が激しいところです。
自衛権自衛隊をどう捉えるか?というのが問題になります。付随して9条をかえる事ができるかも現在は問題となっています。
まずは条文を。

第9条  
日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2) 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

自衛隊についてまず考えます。
自衛隊のような武器を携帯する軍事力の存在は、「武力の行使」を放棄してることを述べてる第1項で禁止してるのでは?という説と、「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」という第2項に反するのではないか?という説の二つに行き着くと思います。アマノジャクでなければそれが妥当でしょう。
なお独立国家には外国からの急迫不正の違法な侵害に対して自国を防衛するために必要最小限の実力を行使する権利というのがあり、それを自衛権と言うのですがそれについて9条には明文がありません。9条においては自衛権までは否定してない、というふうに解されています。


9条というのはいかようにも解釈可能で有ったりします。
まず戦争放棄についてなんですが。

A) 1項は一切の戦争を放棄していて2項前段は一切の戦力の保持を禁止してるので全ての戦争を9条は放棄してるのではあるまいか?(→2項の「前項の目的」を「正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求する」と考えます)
B)1項は侵略戦争を放棄し自衛戦争は放棄されていないが、2項は前段で一切の戦力の保持を禁じているので全ての戦争を9条は放棄しているのではあるまいか?(→これも2項の「前項の目的」を「正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求する」と考えます)
C)1項は侵略戦争を放棄しており、2項前段は自衛のための戦力放棄を禁止していないので9条は侵略戦争の放棄を明言してるに過ぎないのではあるまいか?(→2項の「前項の目的」を「国際紛争を解決する手段としては」と考えます)

学説でもいくつか論争のあるところですが多数説はB)であったりします。なお自衛戦争を認めてしまうと2項後半の交戦権の否定が説明できなくなるのでC)は少数派です。


さらに第2項の戦力についても議論があります。

D)戦力というのは軍隊及び有事の際に転化しうる程度の実力部隊のことで、軍隊とは外敵の攻撃に対して実力をもってして対抗して国土を守ることを目的とした組織体のことである(→自衛隊は外観上どうみても戦力保持になり違憲ではないか?ということになります)
E)外国からの不法な侵害に対して自国を防衛するための一定の実力行使をする権利である自衛権までは憲法9条1項では否定されないのであるならば、自衛権行使のための実力保持までは憲法上許されるはずで、自衛のための最小限の実力は2項における戦力にあたりはしない(→ゆえに他国に侵略的脅威を与えるような攻撃的武装をしないような自衛隊違憲ではないはず)

自衛権が認められるとしても自衛のための実力保持の問題です
E)は現在の政府見解です。自衛のための必要最小限の実力という概念が先にあってしかも自衛のための必要最小限度とはなんやねん、と定義が難しく、この立場を貫くと自衛のための必要最小限度の必要性があれば核保有も可能という結論になります。歯止めがないので、E)に関しては実は批判がかなりあります。

A)B)はD)とかなり親和性が高く、C)とE) を結合させたものがいまの政府見解です。政府は合憲の立場を当然に主張しています。ただどうみても素直な解釈からはほど遠いところに政府見解はあります。なお最高裁自衛隊の合憲性については正面きっては判断していません。


で、現状について語ると、C)とE)を組み合わせて解釈し、自衛の為の戦力の保持は憲法で禁止されて無いはずであり、自衛隊法を作って運用しておけばそれで事足りる、というスタンスです。言い換えると自衛隊については自衛隊は国民の代表が法律を決める国会において議決された法律事項である、自衛権については国民が直接持つか持たないか決める必要はない、ということであったりします。
正直なところ国の在り方にかかわることですからそれはちょっと、というところがあります。
私は(誤解を承知であえて言いますが)、「自衛権行使のための実力である自衛隊については国民が直接持つか持たないか決める」というニュアンスで、「憲法を改正して自衛権自衛隊憲法上明記するかどうかの是非」の投票はあっても良いのではないかという気がしてなりません。この国のあり方を問う上で実はそれが重要なのではないかな?という気がします。法と現実の乖離を解消するためにも実は有益じゃないのかな?という気がします。
素直に読むと現在の憲法は御覧のとうり交戦権を否定していますから自衛の戦争も不可能ではあるんですが、独立国家である以上は当然に自衛権は存在しています。で、自衛のための実力保持が争点となるわけですが、諸論有るものの、現在のようなあいまいな状況ではなくて、はっきりと自衛権について意思を問うたほうが私はすっきりするのではないかと思うのです。すっきりさせなくてもいい、という意見もあろうかとおもいますが。

自衛権を認めて、それでもなお、すべての戦力放棄をうたうのも一つの手ですし、自衛権を認めて戦力保持も認めるのも一つの手だと思うのです。ここでその選択を問うたほうがいいのでは?というのが私の意見です。





で、9条を変えることが出来るかどうか?ですが、96条の憲法改正において規定されてる改正手続きに従えばどのような改正も許されるのかと言う問題にもなります。
可能であると説く「無限界説」と法的限界が可能と説く「限界説」があります。簡単に説明すると

無限界説→憲法の条文の地位に上下は無く憲法の改正はどの条文にも及び限界が無いとする説(→国民主権の原則や96条の改正手続きが変更可能であり、最高法規である憲法の安定性を損なう虞れがあるという批判が強い)

限界説→憲法の改正が及ばない範囲について論争はあるが、憲法の基本原理に関する部分の変更は国の基本方針の変更に他ならないので現行憲法の否定になり、現行憲法の基本原理を損なわず継続性が認められる変更のみ可能とする説(→憲法の条文に変えられるもの変えられないものという上下があることになるので適当でないという批判があります)

国の最高法規である憲法が無限界に変更できるというのは、やはりまずいのではないか?という考え方から限界説が妥当であると思います。また多数説も同じであったりします。憲法の基本原理(前文、国民主権、平和主義、基本的人権の尊重)を変えるような変更を加えるのであれば、国の基本的な理念を変更することになるのだから許されない、ということです。平和主義を壊さない程度のものなら可、ということになります。
いまの憲法をどうとるかによっても改正できるところが違ってきます。9条1項で侵略戦争だけでなく自衛戦争まで放棄していると解する立場A)からは、軍備力をもつような改正は平和主義を壊すものとしてできないということになります。なお、9条1項で侵略戦争を放棄するとしたB)C)の立場からは2項を変えれば自衛のための実力をもつような改正も理論的には可能ということになるでしょう。



私は戦争放棄についてはB)の解釈が妥当であり、2項を変えて自衛のための実力を持てるようにしたほうがいいのではないか?と思っています。



以下余談です。
一番の問題は、変えてはならないのは目標としての「正義と秩序を基調とする国際平和」を希求する態度なのか、手段としての「非武装」なのかです。
オマエねーバクチと一緒にすんなよー、と言われそうですが、バクチで失敗した人間が、バクチをしないというふうに宣言するのも、バクチで失敗しないと宣言するのもわかります。とても似ていますが、バクチで失敗しないということと、馬券を買わないとかパチンコをしないとかのバクチを断つこととは全く違います。たぶん変えてはならないのはバクチで失敗しない態度で、憲法改正に置き換えれば平和と言う目標を変えることはやるべきではない、はずなのです。
手段としての非武装は常には妥当ではない気がします。実はバクチの誘惑にあがなえないような弱い人間に対してパチンコするなー、というようなときのみ妥当すると思います。制定当時はたしかに非武装を主張するのが妥当な状況下に有ったと思うのです。現在がその状況下に有るかといったら違うと思うのです。

武装を維持するのか否かについては全く議論が分かれると思います。

私は理念としてのA)のような戦争放棄や非武装は、実は魅力的だというのを認めざるを得ません。崇高な理念だとおもいます。しかしながら、運よく我が国は蒙古襲来以降全く外国からの侵攻を受けていなかったりしますが、外国の侵攻がありそうなときに侵略されないための手段をとることは否定されるべきことなのでしょうか?自衛のための交戦権の一部容認と自衛の武装は明記してもいいのではないか?とおもうのです。現実に他国が侵入してきたとして非武装を貫いて抵抗せず、というのは正直、妥当なのか?とおもうのです。


戦争の悲惨さを語り継ぎ、現行9条を遵守せよ、という主張は全く判らないでもなかったりするのですが。


かなり粗く駆け足で書いてます。まとまりのない記事を読んでいただきありがとうございました。
もしこういう方面に興味が有りましたら憲法の教科書をお薦めします。憲法は条文が少なく現代文で書かれてるので読みやすいかと思います。ひょっとして夏の参議院選挙は憲法が争点になるかもです。

憲法 第四版

憲法 第四版