書き飛ばして書いたので飛躍があるかも知れず、後日訂正の可能性あり。
(後日一部訂正および補充)
さらに修正するかもしれません。
刑法37条に緊急避難という規定があります。
「自己または他人の生命、身体、自由又は財産に対する現在の危難を避けるため、やむを得ずにした行為は、これによって生じた害が避けようとした害の程度をこえなかった場合に限り、罰しない」というやつです。この条文を語るときよく引き合いにだされるのがカルネデアスの板というやつです。
船が時化で遭難したときに乗員が海に投げ出されるんですけど、甲はラッキーなことに海に浮いていた1枚の板きれに掴まることができました。ところが溺れかけていた別の乗員の乙がむこうから助けを求めてその板に掴まろうとやってきたのだけれども、その板きれは2人が掴まれば沈んでしまうことは自明です。そこで甲は自分の命を考えて乙を足蹴にして海に突き落とし、乙は溺れて死んでしまうといったときにどう判断すべきか?という問題です。
この事例のときにどういった判断を下すかなんですが、甲に違法性はあるのでしょうか?自分が生き残るためなら相手を殺してもかまわない、というロジックを出していいのでしょうか?甲の足蹴り行為は違法じゃないのでしょうか?自分を犠牲にしても相手の生命を尊重しなければならない?生命の価値は本来、個体の間で差はあるはずはない、という価値観の中、我々は生きてます。ちと難問なのです。
えっと、こういうのを限界事例と申します。板切れの話は同価値であるべき生命対生命の限界事例です。
助かる命があるとき、脳死を人の死として脳死状態の患者からの臓器摘出を可としたときに、じゃ、脳が無い無脳症の赤ちゃんはどないなるねん?みたいな議論もそうです。
刑法は生命の質に差をつけてはならないし「生きるに値しない生命」などという概念が存在してはならないはず、としています。しかし臓器移植や板切れ事例のときには何らかの判断を下さねばならなくて、生命の重さに何らかの差をつけねばならなくなってきます。現にわが国では臓器移植のために脳死状態の患者から動いている心臓を摘出していたりします。人間の生命に差異をつけてはならない、といった題目は破綻をきたします。
もっといえば、わが国には自己決定権の思想が憲法にあって、それを考えると子供にも自己決定権があるんですから女子高生が援助交際してもいいじゃないか?といわれたときもそうです。無制限に性の自由があってもよいのでしょうか?答えは賛否分かれると思います。
なんでこのような限界事例を問う必要があるかといえば、永久不滅の、かつ、全てをカバーするような理論など無いからです。生きるのに値しない生命はないという考え、生命平等という考え、自己決定の名の元に何でも許されるといった考えに、破綻というかどこか限界はあり、それがどこまでなのか?微妙なところを明確にするためにやるわけです。
で、板切れの話で言えば裁判所が甲に対して無罪という判断をくだしたとしても、それが即、人間の生命に優劣があるという結論には至りません。無罪の判断に至るまでに、甲は生命の危険を排除するためやむを得ずとか、他にとりうるべき危難を避ける方法が無かったとか、そう至った過程があるからです。
限界事例を議論のときに出すのはあまり得策ではありません。
こういうことをあなたはいいましたがじゃあこういうことですか?という質問の内容が、例えば上の例で云えば生命の価値は人間は同価値であるという議論をしてたとき、緊急避難の場合は結果的に人を殺しても無罪になる→刑法は大々的に生命の価値に優劣をつけてるんですね?といったら妥当ではないのです。理由をすっぽかして、つまり結論に至る過程をすっぽかして、でてきた答えのみを持ち出しても、無益だからです。
ディベートで言い抜ける力、というのは実は重要かもですが、必要なのは健全な社会常識であって極論を述べても自説のさしたる根拠にもならないし説得力を欠きます。
良いたとえではないかもですが、消費者保護の目的から入ってない物の名前をつけて売ってはいけないという考え方があるんですけど、極論を持ち出すと鎌倉の鳩サブレは鳩が入ってないから売ってはいけない(伊東に行くならハトヤ♪のハトヤサブレはどうなるのか?)ブルドックソースはブルドックが入ってないから売ってはいけない、瓦煎餅に瓦が入ってないから売ってはいけない、という結論になります。こういったのは一見論理的に見えますが、しかし妥当でないと思うのです(妥当だと思うあなた、コメント欄に反論を)。
極論や限界事例を検討するのは悪いことではありません。極論や限界事例を持ち出すのは議論が拡散するので好ましい議論の方法とはいえません。繰り返しますが限界事例を検討するのはある考えをある事柄に当てはめることが適当がどうかを、微妙なところをはっきりさせておくためのものです。その点において相手の考えの弱点を指摘するのは悪いことではありません。ただ気をつけねばならぬのは先行した議論の結論だけ抽出して、それに対して単に相手が簡単に答えにくい微妙な限界事例をいえば反論をした気になれるというのはとても便利ですけど、必ずしも説得力ある反論にならないのです。上記の例で云えば生命は同価値であるという議題のときに緊急避難のときは人を結果として殺しても無罪であることを取り上げて生命は同価値じゃないんですね!と喝破したつもりになってもたぶん説得力が無いのです。
議論というのは相手を言い負かすためのものかと云ったら違う気がします。妥当な結論を導くためのものであったりするのではないかとおもうのです。そもそも相手を打ち負かすことにどれだけの価値があると云うのでしょうか
個人的にはそういう態度をとらないようにしなきゃ、とはおもっています。
せめてものマナーとして。
以下、あやふやだけど個人的に伝聞というか聞いたことをもとに話します。
社交辞令が必要ない、という前提に立ったとき、社交辞令じゃなくて例えば挑発的差別発言をしても良いか?といったときには答えはノーです。社交辞令が必要ない、ということと、挑発的差別発言を云っても良い、ということは、どうみても同義ではありません。同じく、社交辞令が必要ない、といったときに何をいっても云いということも同義でもありません。
また社交辞令が必要ない、ということを前提に、挑発的差別発言をすることは許されるかとかあなたは許すのですね?という限界事例を問うことも、設問としていかがなものかと思います。確かに相手の心証を悪くしたり、または相手のことを慮らない可能性があるという点で社交辞令を排除することと差別発言は近接します。しかしこの二つは効能が全く違います。何のことはない、つきあいをうまく進めるための儀礼的なほめ言葉やあいさつを省くことと、差別を助長する発言は異種のものだからです。春爛漫の候といった時節のあいさつを自主的に取りやめることと、侮蔑表現のある文書をかくこととはちがいます。社交辞令は人格を否定しませんが、差別を助長する言葉は人格を問答無用に否定するものだからです。人格を否定した段階で社会常識にのっとった妥当な結論がでてくるわけがありません。