過去の話

劣等感というのが高校生くらいからあって暗い話で自虐的ですが、いまでも自分に自信なんかはさして持てません。で、マイナスからプラスに転ずるきっかけになるような、自分を評価するモノサシがあれば良かったのでしょうが、そんなものはなく、何でも話せるような友人がいなければたぶん、もっと暗くなってたでしょう。その友人の中ですら、どこか厚意で参加させてもらってる、みたいな意識が一割くらいあって、内心ヒヤヒヤしながらあけすけに語るところがありまたし、今でもあります。



思いっきり過去の話です。
そういう自信を喪失気味の人間に対して、例えばなんか誉め言葉でも囁こうものなら傾き易かったりします。自信を喪失してる人間に賛辞とか共有の秘密ってのはほんと麻薬で、その麻薬にかかった人間を落とすのは実のところかなり楽だったと思います。そういうこちらも「話を聞いてくれていてそういった親切にされている自分が好き」なのであって相手を好きなわけではない、という側面がありました。ちょっとだけ年上に、誰にでもしてるわけじゃないよ、といわれてシビックの助手席に乗せてもらって狭山湖とか週末深夜にドライブ、休日にスキー場へ、とかについていったことがありました。劣等感を解消するためになら自分をどこか酔わせてくれる人なら誰でもかまわなかったかもしれません。どこか好かれてる自分に酔うこと、というのは劣等感を持つことより甘く絶ちがたい誘惑があります。ただ自分が満足できたらそれでいいという相手不在の自己満足の世界にはずっと居られなくて、先方も別の目的にとりかかろうとしっかりジーンズに手を伸ばして来たりしたのですが(余談ですがこういう体験で自分で弱点を自覚できたのでどこか、自分を誉めてーって人に会うと、ご自愛クダサイ、という気になります)。

自分が処女でも童貞でもなくなったあと、別に好きでも無い人とセックスをするようになったのは自分に酔うこととどこか同じなのかなーと思います。快感を覚えてしまいそれも忘れることもできず、さみしいから一緒にちょっとでも誰かといたいのであって、好きだからではないってのと似てる気がしています。さみしいというのを避けるために誰か自分を必要としてる人と会うという(内部的)正当化を行いながら寝てくれる≒親切にされてる自分に酔うっていうのがあるきがするのです。いや、あくまでも自分の過去を参照しての仮説で、普遍的なものでは無い気がします。淫乱だね、といわれて引っかかてた自分がいます。切り返しとしては淫乱でどこが悪いのか?ですが、遊びを遊びと割り切れてなくて、どこか酔いたいと考えてる少しさもしい自分がいます。30過ぎてやベー、とは思ってますが。