機械発言についての雑感


(まとめようという意思がありません。論旨がめちゃくちゃですがご容赦を)

情緒的発言が許されるのならば、出産ていうのは命を失う可能性のあることです。で、この国においては刑法などでは生命に対する侵害からの保護がやたらと手厚いことからみてとれるように生命を尊重する思想があります。たまたま私は法学系の学部にはいちまって、その思考から抜け出すことができませんし、信仰が多少あるがゆえに生命を工業製品扱いするのにかなりの抵抗がありますし、子供を「つくる」とか、「もつ」という云いかたにかなりの抵抗を感じます。そのような思考を持つほうからすると、機械扱いの発言はちとどんなものか?というのがそもそもの出発点です。


で、表面的に女性に失礼であったことがクローズアップされ発言者も謝罪していますし、また議論があるのですけども、たぶん子宮をもつ、いま輝いてるか多少輝いている女性の皆様は、これらの発言を聴いて御自身が機械扱いされることに不快感をお持ちになった方もいるでしょうしそうでない人もいるでしょうし、ひょっとしたら謝罪されれば不愉快であってもやり過ごせるかもしれません。機械発言は多くの女性と男性にとっては不愉快かどうかの問題かもしれません。
ただ、憲法にはこういった条文があるのです。


十三条  
すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

第十四条  
すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。


推測に過ぎませんが「女性は産む機械」という意味はおよそ自由な意思を認めないということなのだと思います。
自己決定というのは明文ではないのですが13条を根拠に憲法上認められています。誰だって社会と関わり合いがあればすべて自己の思ったとおりに生きていくことはままならないことは確かです。ただ、できる限り自分の思ったとおりに人生を選択したいと願って生きていくことを保証することは意義があることでこの考えは例えば尊厳死なんかもリンクしてきます。無意識なのかも知れませんが究極的には機械発言のなかに「機械とみなすこと≒人としての人生・生き方を選択したりすることの否定」という意図がどこかしらあることが問題だと私は思うのです。 少子化や人口統計の文脈で語られたようなのですが、政策決定に関わる行政のトップが女性の自己決定を否定して自己決定権(上の憲法13条)を否定し、特に女性の自己決定を否定してるのですから、性差別(上の憲法14条)でもあるとおもうのです。私は法学部というよりアホウ学部で勉強したくちですが、この憲法13条と14条に反する部分は批判されてしかるべきかとおもいますし、行政府としてはリアルに憲法13条と14条に反することが起きないように努めることこそ重要ではないかと考えます。 で、男女共同参画という政策がありますが、ちと紹介しておきます。

男女共同参画」って何?

男女共同参画という言葉は、聞いたことはあっても、どういうことなのか分からないという方もおられるかもしれません。男女共同参画社会とは、男女が個人として尊重され、ともに多様な生き方を選択でき、認め合う社会です。


今の社会はそうでないの?

私たちには、知らず知らず「女だから、男だから、こうあるべき」という意識が身についています。こうした固定的な役割分担意識は、男性にとっても女性にとっても本来自由に選択できる生き方を制限しているものです。こうした意識やそれが元になっている社会の制度や慣行は見直しを進め、男性も女性も、ともに多様な生き方を認め合う社会をつくることが不可欠です。
http://www.yamagata-cheria.org/山形県男女共同参画センター hpより転載

えっと、男女共同参画っていう政策がありまして、従来の概念を変えようというのが男女共同参画なのです。一人ひとりの個性を生かして、男女に関係なく教育を受けたりとか、女性は「お茶だし」「男性の補佐役」といった意識をなくしたりとか、 社会慣習などに基づく職場での不平等を積極的に払拭してといこう、というものです。男女の違いを残しながらではなく特性の違いがない個々の個性のみが差異となる社会という捉え方が妥当です。で、かの機械発言は、これにも引っかかると思うのです。確かに性差からいって女性が生物学的に「産む役目」であることは確かですが、子供を産み育てるのは、結局女の仕事ととらえ頑張る/頑張らないにもってってるところにも問題があるのですのです。少子化は産む役目の機械が頑張らないからだという無意識の断定?があって女性ががんばらないから少子化が進んだという仮定に立つのだとおもうのですが、この仮定は証明不可能だと思うのですが。
また、二人以上子供を持つのが健全、というのはたぶん感覚的に理解できないこともないって人がほとんどだと思いますが、じゃあ、二人以上産まないのは不健全なのかってことになってきます。言葉尻の問題でなく、子供二人が健全/不健全という価値判断がおかしいとおもうのです。二者択一的に子供二人が健全といったときに、黙示的に子供の居ない家庭は不健全なのかなあ、ということになりませんか?
危機的状況下にある地方における医療の問題を含め、インフラや出産に対する施策を整備することは重要かと思いますが、産む産まないは当事者の問題であってそれについて第三者や国が頑張る頑張らない健全不健全というふうに誘導するのが私はおかしいとおもうのです。
ひょとしてこの考え方はおかしいかも知れませんし批判もあると思います。




以下雑感です。
異なる集団として主流から異端視され存在を無視されたりするのが、マイノリティ問題の出発点だと私は思います。で、基本的に世の中マジョリティや強者の枠組みなのですが、現実的には抑圧する側と抑圧される側は相互に浸透して、およそマジョリティへの同化が精神的に強制されやすいのです。そこに差別問題というか、抑圧が発生しやすいのです。いまは具体的に施策によってどうこうという訳ではないですが、自分たちのアイデンティティをマジョリティによって抑圧を受けてるとか妨げられてるときに、憲法で云うところの自己実現が妨げられてるわけです。実際、社会に関わるインクローゼットのゲイやレズからすると肌で感じてると思うのですが。結婚の問題を突きつけられるときとかです。
人口統計をふまえて少子化対策の件を話して機会発言が出たのですが、子供を産めない、もしくは産まないことを選択したマイノリティの女性、または性的マイノリティの場合、たぶん抑圧を感じやすいと思われるのです。
で、一連の発言には根底に多様な生き方ってのを否定するのが、どうもあるような気がしてならないのです。多様性を容認していたならば、女性を機械に例えることもしなかったでしょうし、頑張ってとも云わなかったでしょう。この点政治家としてちとどうかとおもいます。はなからマイノリティなんかどうでも良いのというスタンスかもしれませんが。


更に私が違和感を感じるのは出産に関する国家の介入です。
国家が介入していた事例が無いわけではなくてシンガポールは独立以降、政府が推進してきた強力な家族計画があって夫婦2人までの産児制限があり、3人目以降の出産に対しては医療保険からの支払いがなされない、など徹底的なものでありました。なお、高学歴(大学卒)の女性には3人までの出産が奨励されていました。ここまで徹底していなくとも数値を挙げて管理もしくは誘導することの違和感というか、許容できるかどうかなのです。私は違和感があります。繰り返しになりますがインフラや出産に対する施策を整備することは重要かと思いますが、産む産まないは当事者の問題であるはずです。
人口推計の話をして機械発言が出てきたということは国民を資源として数値化した上での発言で、性を政策的に操作しようという発想が底流にあったと思うのですが、ちと薄気味が悪いというか、変だと思うのです。考えすぎかもですが。


子孫を残すことだけが、女性の存在価値じゃないと私はおもいます。代理母の問題や男女平等なんかを論ずるときに気をつけなければいけないのはそこの問題で、すべての女性が子供を産む産まないの選択を主体的にできるようになることは理想的であるとおもうのですが、実は産めない体でもそれはまったくおかしなことではない、というふうになるべきなのではないかと正直おもうのです。この点実は多く産んだお母さん方が英雄視されたり、向井さんの件がなんとなく美談になってるのがなんとなくおっかないとおもっているのですが、流れはそうでは無いのかもしれません。


考えすぎかもしれませんが多様な価値観というのはひょっとしてこの先実現されることはないんだろうな、というのを機械発言から私は嗅ぎ取りました。私は女性との生殖行為は可能かもですが正直健全な家庭を築けるかわかりませんし、甘がみされたりわき腹を軽く撫でられたりシャワー上がりの素肌にさりげなく指が触れた時のあのゾクッという感じが堪らなくすきな人種なのでたぶん健全なほうではないという自覚があり、息苦しい世の中になりつつあるのではと妙に敏感になってるだけかもしれません。童貞でもない代わりに処女でもない不健全さを持ってることに後悔はありませんが。性のあり方ぐらい、自由にさせてくれよ、とやかく口をだすのは野暮だよ、とは思うんですけど。