他人からの拒絶は誰でも怖かったりします。期待されてるかどうかは怪しいですが、いまでも友人や周囲、親の信頼や期待を裏切るのもどこかで怖かったります。どこかでびくびくしてるのです。たぶん周囲を失望させないように、勉強も仕事もきちんと全てせねばならない、と思っていた部分がありました。ただ誰かが私の人生に責任をとってくれるわけじゃないわけで、親はいつまでたってもたぶん親でしかありませんし、周囲も他人に過ぎません。途中で、どこか馬鹿馬鹿しくなったことはあります。他人が自分をどう評価してるなんて考えてもしょうがないじゃないか?みたいなことです。これは多少自分の性癖にも関係してくると思うのですが、ある意味私はある程度同性に惹かれるといった時点で社会的にあるべき男性像を逸脱してるわけで、そこらへんからすると既に赤点確定かも!みたいなあせりが有りました。赤点確定であるのにもかかわらず期待をもって生きてゆくためには、ものさしを替えて自分が赤点確定ではないことを納得させる必要があって、はじめの一歩として他人から見た自分というのを気にするのをなるべくしないようにしよう、と考え始めました。ただそれを徹底できて無いので今でも赤点確定かも、という疑念と恐怖は拭えていませんでリアルには殆ど告白してませんし、赤点確定発覚を怯えつつ普通のどこにでもいるような男として棺桶に入るまで演じ続けるかもしれません。他人の評価を気にするなんてどこか馬鹿馬鹿しいと思いつつも、期待を裏切り他人の拒絶や他人に見捨てられることにちと恐怖を持っています。
拒絶や孤独について、見捨てられることや自分が他人を見捨てることを経験するとどういうことか判ってきます。たぶん、拒絶されたことや孤独を体験してる方は多少はわかっていただけると思うのですが鉛を飲んだように辛いものだと思います。拒絶や、孤独がです。同時に人間は単純で理性的なんかではなく、弱くて怒りやすく、傷つきやすくて意地悪で、明るく陰気な存在なのかも、とわかってきました。
かといって、拒絶が怖くて何もしない、というわけにはいかない。引き篭もれません。人間と会話する楽しさとか、人肌知っちまったら、です。


やはり現実にぶち当たって本当のことを知るのは、案外恐ろしいことです。あなたは優しい人だ、と聞こえるようにいってその優しさを暗に要求してくるような、不愉快な思いをさせるかもだけど黙って許してねって平気でいう人種をはじめて知ったときの恐怖はいまでも忘れることができません。無意識かどうかは判りませんが些細なことをあげつらって茶化したり文句をつけて優越感を味わい、より上に立とうという人もいますです。他人はやはり怖い存在であったりします。
けど、同時に現実にぶち当たるということが悪いことばかりではないということも判ってきました。有形無形で抱擁されたり教えを乞うたり有益な指摘を受けたりです。神様はたぶんそれほど意地悪じゃない。


堂々巡りなのですが、ここでやはり、なんというか、百点満点を是とする定規をつかえば私のような少数派は完璧を目指せば自分に無理が来る。かといって、社会で生きていく上で自分のものさしを徹底できない。引きこもりにもなれない。
しんどいかもですが、やはり、現実的に自分を多数派に合せていきてくしかないのかな?とはおもいます。