山椒魚

山椒魚は悲しいんだ。彼は彼の棲家である岩屋から外に出てみようとしたのであるが、頭が出口につかえて外にでることができなかったのである。」
井伏鱒二著「山椒魚」の一節です。
山椒魚」を読んだのは確か高校生のときでした。簡単に言うと、しかるべきときにしかるべき行動をとらず洞穴の中で二年間を過ごして、ある日、体の発育のため、もはや絶対にそこを出られないと悟った山椒魚は、「何たる失策であることか!」とつぶやきます。


いまから考えると、誰もがそれを抱える危険性があると思うのですが「山椒魚」というのは引き篭もりって肥大化する自分の幻想のことで、肥大化してしまった自己に対する愛を重んずるばかり現実から逃げてしまうことを戒めるようにもとれますし(→えっと、自己愛まんまんの幻想の自分を見出すことによって現実としての今日を生きる自分をないがしろにしがちになることを遠まわしに戒めてるのかなあ、と)、またなによりも、しかるべきときに行動せよ!という警告なのかもしれません。いま、私はそういうふうに解釈しています。いずれにせよ、深い、と、ため息をつきたくなるような、作品です。


話は変わります。
突然山椒魚を思い出したのは、知人の結婚式の数日後でした。


だいたい独身男性というのは25くらいから周囲が結婚等を奨めたがります。一家を構えて一人前、独立して御世継ぎを産んでナンボの世界ってのがあります。私は20代後半で父を亡くしましたが、その葬式の最中の火葬場や直後にもそういう話が内々に「よければ話をもってくるけど、どう?」ってカタチでありました。余計なお世話だ、とはおもいますし、自分の道は自分で決めたいとか思っていましたから、やんわりと断りました。
すこし前まで知人とつきあいがあったのですが、彼もまた配偶者さんを貰わねばならぬ立場で、実際港南台だか洋光台だかにいた親しい存在の後釜に配偶者になれない私が座ったものの、どこかでそういう日が来るだろうな、という予感は常にありその点だけは冷めていて、できる事ならずっと一生居たいとはおもうけど、むりだろうし、それがダメなら今がよければいいや、みたいなところがありました。

数回それとなく転機は有ったのですが、それをすべて自分から断ち切っています。
まず、私の勤務先が私の自宅よりも知人の借りてるマンションに近かったので、住まないか?という提案。
ついで、自分のところで(会社経営してるので)働かないか?という提案。
自分がこんど立ち上げて関与する会社で働かないか?という提案。
真面目な顔で、真面目な話として切り出されたのですが、すべて私は断っています。どれもできないことはないのですが、実現には自分の事情等があって勤務先を抜けれたり実家を離れることが難しかったりして困難が予想された。いまからおもうとですが、乗り越えようとおもえばそれができ、それを乗り越えるべきだったと思うのですが、できなかったわけです。誠実でなかったのはこちらかもしれません。えっと、しかるべきときに、しかるべき行動をしなかったわけです。むこうはひょっとして繋がりを固定化させたかったのかもしれませんが。



ようは、岩屋から、でなかったわけです。
山椒魚と、おなじじゃないかと。






結婚式が有った夜、家へ帰って別途貰っていたメールには
「感謝。言葉にできず思うのみ
 ありがとう 
これからもよろしく頼む 健康に留意せよ」
とだけ記されていました。どういうつながりになるかわかりませんが、まだか細い糸だけはあるようです結婚式の二次会で、そのときに無意識に新婦のドレスを踏んづけたりしたらしいのですが(新郎が後日教えてくれた)、それは不問だったようです。



私はリアルでは山椒魚ではなく、二足歩行する人間です。と、同時にあまり強くない人間です。句読点を打てずに、うだうだしています。岩屋を自分の手で突き崩すことはできるでしょう。
このさき、どこへ行くのか自分でもわかりません。
たぶん、普通の友達のようにつきあえる自信はあるのです。どういう立場でも、なんとか、そばに居れればいいなあという、感情は有ります。