死刑の話

死刑適用基準(永山基準

 連続4人射殺事件の永山則夫元死刑囚(事件当時19歳、1997年8月執行)の第1次上告審判決(83年7月)で、最高裁無期懲役の二審判決を破棄した際に示した。死刑は(1)犯罪の性質(2)犯行動機(3)犯行態様、特に殺害方法の執拗(しつよう)さ、残虐さ(4)結果の重大さ、特に殺害被害者数(5)遺族の被害感情(6)社会的影響(7)犯人の年齢(8)前科(9)犯行後の情状―をそれぞれ考察し、その刑事責任が極めて重大で、罪と罰の均衡や犯罪予防の観点からもやむを得ない場合に許されるとした。

2006年6月20日(火)付東奥日報より転載





奈良の女児殺害事件で、検察側の求刑どうり死刑判決が出ました。殺人罪は条文上死刑が適用できますが、死刑判決というのはむやみに出せるものではありませんで、基準となる判例があります。それが上記の基準です。
今まで被害者が1人のときに死刑判決というのはどうも仮釈放中の再犯者とか、強盗目的だったとかに限られてたようです。奈良の事件についてはわいせつ目的です。この点、被害者が1人であることを考慮しても、幼少の女児で性的被害に遭っていること、犯行の計画性や残虐性、遺族感情などの点で、「数だけをもって死刑を回避することはできない」と結論付けた判決は妥当といえなくもない気がします。普通は。ただ、どうしても引っかかったところがあります。


今まで刑事裁判というのは刑法とその他法令や判例に基づいて緻密に運用されていた経緯があります。
私がひっかかるのは被害者の遺族の感情についての判決での態度なのです。確かに考慮すべきものだと思うのです。ただ、それがすぎると遺族感情に配慮するならばすべての殺人事件ですべて死刑判決を出さなければならなくなるという理屈に結びつきかねません。殺人事件や性的犯罪は忌むべきものでありますし、なるほど極刑で臨むべき事例かとはおもいます。ただ、そこに女児であったからとかというのが正直なところそれほど重要なところなのでしょうか?
例えば親が子供をあやめたとして、殺人事件で死亡した子どもも同じ「殺人」の被害者なのに、たぶん死刑にはなりえません。また強姦殺人の場合も被害者が1人のときには多分死刑にできません(判例からおもうと)。被告が反省や悔悟を見せてない、というのも死刑判決の重要なファクタでしょうし、抵抗が難しい女児相手の犯罪ですから、裁判所の判断はわからないでもなくも無いのですが、私は本来は人の命に差があって良いものなのかどうかとおもうのです。



原則裁判官は公判延で直接取り調べた証拠等によって裁判がおこなわれます。たぶん、報道などには影響されてないとおもいますし、裁判官も理論構成に苦労したとおもいたいのですが、被告の一生を左右する刑罰については慎重であるべきではなかったかと私はおもいます。個人的には弁護側の「結論ありき」という批判が妙に説得力があった気がしました。