危険人物

危険人物かもしれません。


コンプレックスというと誤解があるかもしれませんが(そもそも本来はコンプレックスとは、何らかの感情によって統合されている心的内容の集まりで、ある事柄と、本来無関係な感情とが結合された状態であり、これを「心的複合体」とも訳すのですけど、そういうのでは無くて)劣等感を指すほうのコンプレックスがわたしには何時からかありました。なんかこう、ひとつに自信がなくなると総崩れというわけではないにせよ、身体もたいして頑強でなく、美形でもなければ頭も良くないので、自分にあまり自信は持てませんでしたし、自分を誰かが好いてくれるということがあるんかいな?ぐらいの考えを高校生のときなんかは持ってたのです。

旧約聖書の影響を受けながらも(このことはしばらく抜けなかった)異性はともかく同性にも興味がありましたし、いまからおもうと相手の策略にまんまとはまってた気がするのですが、深夜にクルマで外へ遊びに誘い出す多少年上の同性もいました。そのときに自分も性的興味の対象になるんだと実感させられることが起きたりしたのですが、たぶんこれが友情とか親子でもない他人による存在の肯定を自覚した最初だったとおもいます。性的興味故の行動だったんでしょうけど。
至極当たり前のことですが性的興味があった故の行動であっても他人に存在を肯定してもらえるとちょっと自信がつきます。しかし、その性的興味故の行動は相手の内心とかを必要としないことがわかってきます。体感しないとわからないことだとおもいます。



内心を含めて他人に存在を肯定してもらうこと、というのはホントに強いことであるとおもいます。異性であっても同性であっても、手を繋いだりとか、料理を作ってもらうとか、デートにオーケーしてもらうとか、自信がつき嬉しいことであるとおもうのです。
「柔肌の、熱き血潮に触れもせで、悲しからずや、道を説く君」
という与謝野晶子の短歌がはたしてどういう状況下でうたわれたのかはわかりませんが、なんかこうひどく存在を肯定してほしいときに詠んだのかなあという気がします。


問題は30すぎて今更ながらまだたまに他人に存在を肯定してもらいたいのかも、とおもってる私の存在でしょう。
なんか危険人物かもしれませんこのダイアリーの著者。





そうおもった方はいますぐリンク先をクリック!