なんちゃって仏教徒として

昨日今日と帰宅してからパソコンの前で、自己決定権についていろいろ考えていました(小一時間ですが)。尊厳死安楽死ともこの問題は親和性はあるのですが、アウトプットは暫く熟成させます。終末期の患者の人権、未成年の人権、脳死状況にある患者の人権、どれも生命の主導権を他人に支配されやすい状況にあります。私は自己決定権というものを否定したくは無いのですが、この言葉を使って安楽死尊厳死脳死判定などを正当化するのはいまいち納得がいってません。死、というものを個人に収束させることで確かに法学的?にけりはつく気がしますが、他者との存在ではじめて人間が人間らしくなるという前提に立てばなんちゃって一仏教徒としてはいまいち納得がいかないです。
えっと、脳死や心臓死などの医学的状態の死に還元されることで、それがあたかも患者本人だけの問題であるかのように見なされ、末期患者が死を迎える場面などで周囲の人々との関係が否定されることに私は多少抵抗があります。周囲はただ、枕経を唱えるのをまつしかないというような。
ただ周囲の他者との関係における死の問題はさして大問題ではないでしょうし、自己決定権そのものの否定にはさしてつながりません。そもそも医学的状態の死そのものはその患者本人に到来するのですから自らの死に関する自己決定を周囲の他者はやはり否定することはできないのでしょうが。

本日は単なる独り言でございます。