あんばようやってちょーよ

きっと前にも書いてるはずなんすが、名古屋勤務時に「ま、あんばようやってちょーよ」とちょっと上の人に言われて戸惑ったことがあります。あんばいよくやってな、という意味なのですがそのときは名古屋に来たばかりで完全な名古屋弁スピーカーではなかったのでなにを云ってるのかわからなかったのです。会話や文章というのは「話す」もしくは「書く」ほうと「聞く」もしくは「読むほう」がワンセットで、同じ言葉を理解してるとかの同質性がないとたまにほんとちんぷんかんぷんになりえます。
でもって厄介なことを書きます。

「東郷大将が大和魂を有っている。肴屋の銀さんも大和魂を有っている。詐偽師、山師、人殺しも大和魂を有っている」 「先生そこへ寒月も有っているとつけて下さい」「大和魂はどんなものかと聞いたら、大和魂さと答えて行き過ぎた。五六間行ってからエヘンと云う声が聞こえた」
吾輩は猫である 夏目漱石

吾輩は猫であるの中で大和魂について触れられているすごく印象的な部分なのですが、無かったらおかしいという同質性に担保された「大和魂が有っている」という最初に断定があると、その断定ゆえに説明が続かず説明になってないです。同質性があるとなんとなくわかった気になるのか、不思議とその説明が続かないことについて誰も疑問をさしはさみません。誰も口にせぬ者はないが、誰も見たものはない、誰も聞いた事はあるが、誰も遇つた者がない、大和魂はそれ天狗の類か、と続く(というか喝破してる)のですが、どんなものかを誰も説明できなくても・説明がなくてもそんなふうに文章って続けることが出来ちまいます。余談ですが大和魂について云えばいまでも説明がなくても文章って書かれています。たとえばラグビーワールドカップのときに大和魂ってのをみかけてて・もちろん大和魂の説明もなく、それらを書いた人や肴屋の銀さんや寒月と同質性がない私は・大和魂はいまだに理解できていなかった私は、そこで躓いています。バカにされそうなことを書くといまでも大和魂を理解していません。幸いなことに大学受験でも入社試験でも問われたことはありません。そのうち愛国者試験なんてのができたら大和魂について答えられない私は真っ先に抹殺されるでしょうって、大和魂に関するてめえの無知と妄想は横に置いておくとして。
ある他人の文章をかなり前に継続して読んでた時期があります。最初はそんなことなかったのですが、そのうちじわじわっとなにを云ってるのか理解できなくなってきて躓きはじめて読むのがしんどくなって、読むのを止めてしまったことがあります。「猫」を読んで大和魂のくだりで言葉の説明がなくても人は文章を続けるということに改めて気がついて、書く方に読み手は同質性があると踏んだのか読んだ文章に結果的に説明があんまりないまま難解な言葉が置いてあり、また経験上、書く方と読むほうの同質性がないとちんぷんかんぷんになる、というのが理解できていましたから、そこらへんに躓いた理由を求めていました。しばらくして文章は別に他人にわかるように書かれなければいけないものではないけど、そこらへんのことを書いた本人が気にしなければ書かれてる内容を理解できない人間はそもそもアウトオブ眼中で≒愚者は相手にしないっていってるのと同じではないかと気が付きます。She never listens to them, She knows that they're the fools.完全に読むのを諦めてます。
愚者は経験に学ぶといいますが特段恨みもなんにもないけどその他人の文章を読むのを止めた経験から
「他人がわからないかもしれない言葉はなるべく使わない」
というルールをおのれに課しています。自分の頭で考えた言葉で他人にわかるように説明することをしなくなれば、どんどん言葉を知らない人を拒絶する蛸壺に入ってゆくだけと考えて、蛸壺にはいらぬように心がけています。また、誰が読むかわからない、というのもあります。こう書くと簡単ですが、すごく難しくて、貴様は同質性があるとは限らない他人に読みやすい文章を書けてるか、というと怪しいところがあります。しかし「ああいうふうな文章を書きたくない」という一心というか、反面教師がいたからその努力はつづけられてるところがあります…って、書いてておれ相当根暗です。オフ会にも出ないと決めるとカッコつける必要もありませんから、だれが読むんだよそんなものというのはありますが、暗い内面もあけすけに書けます。
最後にくだらないことを書きます。
私はいわゆるセクシャルマイノリティのくくりに入ります。でもゲイタウンとはほぼ無縁です。カミングアウトもしてませんから仮面をかぶって勤務先にいます。仮面をかぶらないときは2人で秘密を共有できればそれでもいいや、と思っていいてほぼ孤立していました。でも文章を書くようになったおかげで逢いはしないけどセクシャルマイノリティである人とのつながりが出来て、たとえばすることをしているときに最後の予告(よい子のみんなはわかんなくていいです)の必要の可否とか必ずしも高尚ではないけどいくらか重要な議題で知見を共有することがあったとき、他人がいる醍醐味を感じて、視界が・世界が広がった気がしました。その味をしめてセクシャルマイノリティであるかどうかを問わず、実際には逢わないけど考え方とかが手に取るようにわかる知り合いが幾人か出来てます。誰かの文章を読む、自ら文章を書く、書いた文章を誰かが読んでいる、というそれらの経験のおかげでより世界や視界が広まったと感じられ、また文章を書かなかった頃に比べておのれのレベルアップを自覚でき、言語化して表に出すことの重要性を感覚的に理解できるようになっています。もしかしたらそれらの経験や自覚や感覚的理解はすべて錯覚かもしれません。錯覚かもしれないけどその錯覚から覚めたくないところがあります。
経験から学ぶ愚者がつらつら書いてきたのですが、文章を書かなければ知らなかった得難い経験をしたと思っているものの個人的なことなのでおそらく普遍性はありません。なので、はてな今週のお題が「ブログ初心者に贈る言葉」なのですが、そんなものはありません。ただしいていえば快適なWebライフを送れるよう
「ま、あんばようやってちょーよ」
であったりします。
現場からは以上です。