不幸と幸福

今夏の性的マイノリティに関する比例選出の代議士の論文に関して23日付の毎日新聞ロバート・キャンベル先生の記事が載っていて、その論文に関して一読して問題点が多すぎ正面から指摘する必要はないとしていたものの当事者として見過ごせなかったのは性的マイノリティを「不幸な人」と呼ぶ点であった、と書かれていました。
さて性的マイノリティでなければ幸福なの?というとよくわかりません。いまは性的マイノリティであって性的マイノリティではない経験がさしてないからです。理屈ではなくパエリアとかでもメシを作ったらそれをきれいに完食してくれると嬉しいし幸福感がある、というのもありますが、そういうのは横に置いておくとして、すごく個人的なことなのですが、知らず知らずのうちにやっていた上目遣いっぽい癖をなおすとか卵に限らず苦手意識があってもとりあえずチャレンジするとか甘やかすだけではない同性と付き合うことで私は変化しています。同性と付き合うことでいまの自分がありますし、おのれをかたちづくる芯のようなものは同性とつきあうことで形成されたところがあるので(対外的に公言することはないけどおのれの存在を肯定してくれるというのはけっこうでかくて)おのれの身をすくなくとも不幸といえる状態にはないと思っています。なにが不幸でなにが幸福か、というのはけっこう線引きが難しいし、てめえの尺度なんざきいてない、と怒られそうですが、でも性的マイノリティ個人が幸福か不幸かは性的マイノリティ自身が決めることであって・性的マイノリティに限らず個人が幸福か不幸かどうかは個人が決めることであって、第三者がその属性などによって幸福か不幸かどうかを決めるものではないはずのことです。キャンベル先生とはまったく違う道を歩んでいますが、性的マイノリティを不幸な人とすることについては見過ごせない、という感覚もなんだかよくわかる気がしました。
毎日新聞はキャンベル先生ほか当事者の声を紙面に載せるにあたり代議士事務所にコンタクトを取ったようなのですが回答を差し控える旨の連絡があったそうで、対話も成り立ちそうにないようで。いまの世の中には多様性のある社会ってお題目は素晴らしいのですが、目の黒いうちはそんな世の中来そうにないかもなんすが。
あんまり大上段に構えるつもりはないのですが、不幸とか幸福って、なんすかね。でも繰り返しになるのですが、他人が決めるものではないような。幸福か不幸かを第三者が決める発想自体、相当変だと思うのだけどなあ。