忘却できないカチンときたときのこと(もしくはその対処法)

亀戸の天神様のそばに船橋屋という和菓子屋さんがあります。小麦粉を発酵させたくず餅が名物で、夏の暑いときの小腹のすいたときにはもってこいのもので・冷房などが発達する前から江戸東京でずっと食べ続けられたもので、冷やしたくず餅にはきな粉をかけたうえで黒蜜を垂らして食べます。ありがたいことに亀戸天神のそばまで行かなくとも亀戸駅や東京駅、押上や吉祥寺などでも扱っていて、週末におっさん2人がくず餅を冷蔵庫から取り出して嬉々として分け合って食べる姿は想像すると滑稽かもしれぬものの夏には欠かせぬもので、毎年必ず複数回は食べています…って、好きな和菓子の紹介の話をしたいわけではなくて。広島のもみじ饅頭のように知名度が全国区ではないものの、東京にはくず餅のように食べられ続けてるものがあったりします。

はてなのサービスであった今はないはてなハイクはわりとゆるいところではありましたが、頭のゆるいのは私ぐらいで、意図してか意図せずか余計な一言のようなことを云う人も居ないわけではありませんでした。「東京にも美味しいものがあるんですね」という趣旨の、それが私に向けられた言葉かどうかはわからぬものの、どこか東京を下にみた・上から目線の投稿を、目にしちまっています。はてな今週のお題のもう一つのほうがはてなインターネット文学賞「記憶に残っている、あの日」なのですが、正確な日付こそ覚えていませんが、その文字を眺めたときの、カチンときた感覚・それまで聞こえたものが無音になった感覚は、(これって今でこそ「煽り耐性が弱い」のひとことで済んでしまうのですが)何年経過しても忘れることができません。東京で育ったので、船橋屋に限らず東京の食べ物や東京の味付けが舌の基準になっていて、それを全否定されたと当時は捉えていて、ショックを受けたわけで。話はいつものように横に素っ飛ぶのですが

「メールとかメッセージってさ、ぐさって刺さるんだよ」

前を向いたまま、咲太はいつもの調子で口を開いた

「…?」

「かえでがいじめに遭ったときさ…、カウンセラーの先生が教えてくれたんだけど、人って目からの情報が八割で生きてるんだってな」

(「青春ブタ野郎はロジカルウイッチの夢を見ない」P249・鴨志田一電撃文庫・2015)

ハイクが終わったあたりの一昨年から読んでいるラノベで上記のように書いてあって、目からの情報が8割がホントかウソかはわからぬものの、読んだときにはたしかに「目から得た情報はほんとキツイよな」と腑に落ちています。

誰かにダメージを与えたいという意図で発した言葉の直撃を受けたとき、いちばんの得策は攻撃側の目的を粉砕することになります。数分後にそう解答を導き出したあとは「いままでと同じ」ように振る舞っていました。

以前はてなには「村上さんのところ」というのがあって、それは読者が村上さんにメールを送ってそれを村上春樹さんが返信する、というシステムでした。そのなかで開業した花屋さんが村上さんの本の中で役に立った言葉として「優雅に生きることがいちばんの復讐」を一位に挙げていました(「村上さんのところ」P83・村上春樹・新潮社・2015)。詳細は本を読んでいただきたいのですがこれも感覚的に腑に落ちた言葉で、忘れることはできなくても(ここ数年は夏に船橋屋のくず餅を食べるときなど東京の食べ物を食べるときは気分だけでも)優雅にしています。

さて、コロナの第2波の頃、この時間の〇武線に乗ったらコロナに感染するかも、的なものをTwitterで読んでカチンと来てしまっています。通勤に使うのは〇武線ではないけど第1波の頃から職種柄リモートができないのでずっと電車通勤してる身からすると、ラッシュを回避できる身分でよかったですね的なかつてハイクに居たような人のような余計な一言を云いそうになって、それはリモートできない職種から退社することができない我が身にブーメランのように帰ってくると考え堪えてます。手洗い励行してマスク着用の上でやはり優雅に生活することがいちばんの復讐だと思っていて、そのようにしています。もっとも乗換駅で通勤快速が見えると「待ってくれぇ」と内心叫びながら階段を駆け上がって、無事間に合った車内でマスクを外そうとして外せなくて息苦しかったりするので、傍から見るとちっとも優雅に見えないのが難点なのですが。

スクロールする行為もしくはなんとなくそこにあるものを読んでしまう悪癖

もしかしたら、貴様なにをおかしなことを言ってるのだ、といわれそうなことを書きます。私はどちらかというと文字があると読んでしまいます。電車が来るまでのあいだ本を引っ張り出すほどではないちょっとした合間に駅にある広告の文字列を読んでしまったり、病院で会計待ちをしてる間に病院からのお知らせやお願いなどの文章を既に知ってても熟読してしています。こういうのがうっかりPCやスマホで文字のあるものを見かけるとやばいです。常にではありませんが、場合によってはなんの気なしにそこにあるものを読んでしまいます。

たぶんなんども繰り返して書いていることなのですが、私はいまはもうないはてなハイクというSNSに一時期いました。そこは140字とか280字の制限もなく、スマホやPCなどでスクロールして読もうと思えばいくらでも読めます。でもって、時間のあるときにときたま読んでいました。ただ読むといっても書いてる方と読む方が同じ程度であれば話は別ですがそうでない場合は悲劇で、断定からくる結論があってそれだけで断定からくるゆえになぜそういう結論に至ったのかがさっぱりわからないとか、質問をされて文章で答えてるうちにどっちでもいいじゃないですかといわれるとか、日本語で書かれててこちらも日本語を読める(はずな)んだけど気が狂いそうになったことが何度かあります。そこで私は怖くなって徐々に距離を置きはじめ、読んだとしても気が狂わずに済むような文章の訓練を意識的にしはじめるわけですが、いまだ自信は持てません。

話はいつものように素っ飛びます。

1日付の毎日新聞に台湾の唐鳳(オードリー・タン)デジタル担当相のインタビューが載っていて、主体性が大事であると考えてることや台湾のデジタル政策に加えて言語の多様性からくる多様な価値観の並存の可能性について触れてて(ぜひとも詳細は毎日新聞をお読みいただきたいのですが)きわめて興味深かったです。でもってすごく些細なことに私個人は喰いついています。タン大臣はどこにでもあるようなスマホを持たず、どの資料を探したいか誰と連絡を取りたいのか意識できるガラケーのようなボタンで操作するスマホを使いこなしてるそうなのですが

スマホのタッチパネルに指を滑らせてスクロールする行為は次第に無意識になってゆき、やめられなくなります。すると、自らが意識した主体的な行為ではなくなってしまう。

 と語ってて、妙に腑に落ちています。タン大臣ももしかしたらスクロールする行為を無意識のうちにやってたのかもなんすが。

個人的なことを書くとはてなハイクも読みたいものがあって読むわけでもなくときたまだらだらとそこに書いてあるものを読んでいた時期があるわけで、それがタン大臣の言葉を借りれば「主体的な行為」であったかというとかなり怪しいです。タン大臣の言葉でやっと気がついたところがあります。だから「気が狂いそう…」と思えるまでそこに居たわけで。くり返しになりますが読んでるうちに反面教師的に学んで文章の訓練をしなければならないと主体的な行動を起こすに至ったわけで、そこに居たことがマイナスだったとは思ってはいません。

もっとも冒頭に書いたように文字列を読んでしまう癖は治ってはいません。クセを自覚してるので前からスマホもPCも気を付けてはいます。でもなんとなくスクロールしてしまうことを継続すること≒タン大臣の言葉を借りれば「主体性な行為ではなくなってしまう」ことはついやりかねない可能性は今後もあるので、より気を付けるつもりです。

「みんなと共通することが重要視され」る空気のこと

たぶんきっと何度も書いてることなのですが、はてなハイクというSNSにいたときにSNSというのは同質性のある人同士を結び付けるにはもってこいのシステムではないか、という疑念をもっていました。同質性って別にややこしく考えないでいいです。「〇〇がいい」という意見を書く上で「なにがどういいか」ということを第三者にわかるように書くのが第三者にはわかりやすいのですが、Twitterなどの文字数の関係でそれができないとき、端折って書いてしまうとわけわかめになるのですが、書いた方と読んだ方に同質性があればその人たちの間では通じてしまい、結果として、SNSなどは同質性があり同じ意見を持った人同士の集まりになってしまうのではないか、と疑っています。疑うに至った過程はTwitter慣れした「何がどうよくないか」を端折る人の文章を読んで「わけがわかんない」と頭を抱えたことに起因します。もしかしてネットではそれがあたりまえなのかもしれません。それでもはてなハイクではゆらゆらと生きてこれたのですが。

この1年、折に触れて書いている青ブタこと青春ブタ野郎シリーズも実はネットやSNSの存在が何度か重要な要素としてでてきます。文中の言葉を借りれば事の真偽よりも「みんなと共通してることが重要視され」る空気がSNSなどネットによって醸成されたことがさらっと書かれてます(「青春ブタ野郎はおるすばん妹の夢を見ない」p112)。同質性のことは意識してもこの「みんなと共通してることが重要視され」る空気というのは正直青ブタを読むまではあまり意識したことがありませんでした。主人公である咲太と違って社会人ですが、「どう思う?」と意見を聞かれて違う意見を述べたら不思議そうな顔をした人のことを思い出し、あああそこはみんなと共通した意見を出すべきだったのだな、と読んだあと腑に落ちてます。

話はいつものように横に素っ飛びます。

マスクは感染予防にはならないけど無症状でも他人に感染させないためには必須であることを星条旗新聞で読んでから+リモートワークがいくらか困難な職種なせいもあって都心部への通勤をマスクをしながら続けているのですが、マスクが綱渡りというかピンチだった時期があって、アベノマスクでも何でもいいから欲しいと思っていた時期がありました。はてなハイク無きあとSNSっぽいものにアカウントを作りはしたものの、アベノマスクに否定的な意見をわりとみてしまうとなかなか発言がしにくくなってきました。その何割かはおのれの中にあるのですが、ああこれがもしかして「みんなと共通してることが重要視され」る空気なのかと妙に納得してます。気が付くとなかなかきついです。他人と異なる意見を持ちやすいのでやはり似たような意見が並びやすいSNSに向いてないなあ、と。

フィクションで知ったことが現実として体感できるともう一度フィクションを手に取りたくなり青ブタを本棚から引っ張り出してきたのですが、そこには(フィクションの5月には)野生のバニーガールの桜島先輩が図書館にいました。やはりフィクションはフィクションで現実ではないです。でもフィクションのおかげで前は気が付かなかったことを気が付けただけ、おのれにとってはラッキーだったのかな、と。

「電気羊かってなかった…」4

 ドレミの歌をご存じだろうか?知ってるよね、じゃあ、ドレミの歌以外のペギー葉山さんの曲を知ってる?うん、ダイジョウブ、私もほとんど知らない。でね、ドレミの歌以外で唯一知ってるのが「調子をそろえてクリック・クリック・クリック」という曲。元は外国の民謡で、クリックはマウスじゃなくてカチッとかそういうハサミの擬音です。なぜか小学校のときにこの曲が6年間給食の時間によく流れていた。私は機嫌がいいと耳にこびりついたこの歌をよく口ずさんでいることがある。先日もえっちなことのあとシャワーを浴びながらクリッククリッククリックって歌ってたよ?と指摘されたくらい。別にえっちなことをしたわけではないのだけど、難産だったレポートを提出できたのでワイン片手に、つい口ずさんでいた。

調子をそろえてクリッククリッククリック

ハサミの音もかろやかに

自慢のその手で鮮やかに

そらたっちまっち羊は丸はっだか、と。

次の瞬間、物音がした。

その方向を向くと電気羊があとずさりながら怯えた目でこちらをみている。しまった!と思ってもすでに遅い。いや、キミを丸裸にしようとしようなんて考えてないんだ、って釈明しても怯えた目は変らない。そもそもそういう趣味は…と言いかけてどんな趣味だよと言葉を飲んだ。なに言ってるんだおれ。ああ、電気羊の眼が軽蔑のまなざしに変わるのが手に取るようにわかる。どうしよう…

そこで目が覚めた。調子をそろえてクリッククリッククリックのメロディを奏でながらめざましが鳴っていた。電気羊飼ってなかった…

(訳詞は音羽たかしさんのものを参考にしています)

Click Go the Shears(邦題「調子をそろえてクリッククリッククリック」)の曲を知らないと意味不明になってしまう、「誰もが知っている言葉で書く」という原則に反するかもしれない小咄です。この小咄を書いたあとに布団の中で笑ったという反応を貰って、なんだか安堵した記憶があります。でもってベースにあるのは火の粉がかからぬ他人の危機はやはり笑いになるのではないか・危機と笑いは紙一重なのではないか、という疑問をかたちを変えて出しています。笑いってその底にいつも別のものが潜んでるのではないか、ってのが拭えないのですがって、話がズレた。

上の小咄に限らないことですが(実はまだ何個かある)、笑わすために書いたもので笑ってもらったり好意的な反応をはてなハイクで貰ったおかげで(さらにダイアリに載せて読んで反応をいただいたおかげで)、おのれの書いた言葉や文章も第三者に通じてるのかもしれぬなという確信をいまのところより深めています。

ご笑覧いただきありがとうございました。

「電気羊かってなかった…」3

天使のわけまえという言葉をご存じだろうか。ワインを熟成させるときにナラの樽に詰めるのだけど、時間の経過とともに樽の中のワインがナラの木目から蒸発して以前より目減りしてしまうことがある。その目減りした分を天使がこっそり呑んだことにして、天使のわけまえと称してる、んだけどでもこれって濡れ衣もいいところだよね。なんでそんなこと知ってるかって?この前デートで小樽のワイナリーへ行ったとき、にわか勉強したから。でね、理屈として酒が減るのが樽ならわかる。小樽で買ったワイン、もちろんガラスの瓶に入っているのだけど、昨日より確実に減ってる。まさか留守中に天使がはいってきて呑んだのか?なんて濡れ衣まがいのことを考えたところでふと机の向こうの電気羊と目があった。間髪置かずに目をそらされた。そして電気羊が、千鳥足で、逃げようとしている。

貴様か。

人間がワインを飲んでええ気持ちになってるのをみて、よしおれもとなったのか。くれ、と云われれば呑ませてよいかな、という気にはなるけどこっそり呑もうなんていい度胸しとるじゃねーか。とっつかまえて今日こそジンギスカン鍋にしてくれるわ。よし、ベル食品のタレを探そう、としたところで酔いが醒めた。

電気羊かってなかった…

野暮な解説を続けます。 歌舞伎の演目に身代座禅というのがあります。どういう話かの詳細は願わくば歌舞伎座などでご覧いただくとして、登場人物がうそをついた相手を怒る・うそをついた相手を成敗する場面があります。それが不思議と笑えてくるのです。その記憶を引っ張り出してもしかして怒りという心の動きは傍からみたら笑えるものなのだろうか、なんてことを考えながら(状況を写生することをこころがけて)書いてました。

書いたあと、おのれに火の粉のかからない他人の怒りというのは野次馬として安心して楽しめるのかもしれないな、などと気がついたのですが、つまるところこれを書いてるヤツは野次馬的なところがいくらかあったりします。書くということはおのれの知らぬどす黒い部分を再発見するいい機会でもあったり、って、おれがおのれをよく知らないだけかもしれぬのですけど。

「電気羊かってなかった…」2

「じゃあ、こんど楠田くん(仮)の家にあがらせてもらうね」

と今夜彼女は云った。もちろんまだ恋人ではない。あ、なんとなく話が合いそうで居て楽しいな、と気が付いたのでSNSのidも既に交換していて、今夜は居酒屋でザンギを前に、ザンギやから揚げににレモンをかけるか否かという些細なことから揚げ物談義ははじまり、先日から揚げを自作したけどカリッとしないでべちゃべちゃになってしまった、という話をしたらわりと具体的なアドバイスを貰った。謝意を述べながら「詳しいね?」と至極あたりさわりのないことをいったのだけど「揚げ物得意だから」というので「へええじゃあ今度コーチしてよ」とものの弾みで云ってしまったわけで。そこから冒頭の言葉のように(コーチとして)うちに来る、ということになった。会計のあと別れ際、酔っぱらってたので「コーチ、よろしくおねがいしまっす」とふざけて軽く挙手敬礼したら「ビシバシしごくよ」だって。ふふ、おれ、しごかれるみたい。でもちょっと嬉しいかな。もしかしてこれって久しぶりの新しい春の予感ってやつ?つか、冬が長かったな。なんとなく夜道を鼻歌うたいながら歩いて帰って玄関を開けて、電気をつけてみると、いつもの場所で横たわって微睡んでいる電気羊がいた。そうだった、うちには電気羊がいるんだった。

どうしよう。

正直は最善の策というから電気羊をちゃんと紹介すべきだろうか。つか、紹介したとしても電気羊を理解してくれるだろうか。猫なら「かわいー」っていってくれるかもしれないが、羊はどうだろう?かわいくもなければ愛嬌振りまくやつでもないし。つか羊飼いじゃないのに羊飼ってるって変な奴って思われないか?ああ違う違う、羊じゃねえ、こいつは電気羊だ。しかしなんで電気羊と暮らしてるの?っていわれたらどうしよう。あのコーチ、そこらへん鋭そうなんだよな。そう考えると電気羊をいまは見せないほうが良いか。そのうち紹介しよう。じゃあこんどコーチが来る間だけ名古屋の実家に預けるか…ってまてよ、うちの電気羊は誰にも教えてない。親に説明するのも面倒だしなあ。電気羊と同棲しとるってあんた何考えとるの、っていわれるのは目に見えている。やむを得ない、スマホを取り出して「OK Google、電気羊を預かってくれるところ教えて?」と頼んだら沈黙を貫きやがった。あとは人力検索はてな?あてになるかなあ。うーんどうすべきか。いっそ羊ケ丘に逃げようか…

そこで目が覚めた。真駒内で駅員に起こされた。電気羊かってなかった…

 

 引き続きはてなハイクの「電気羊飼ってなかった…」のスレで書いたやつです。1もご覧になった方は既にお気づきかと思いますがいわゆる夢オチです。つまんないことを書くとこの先も夢オチが続きます。「電気羊かってなかった…」というスレ自体がいつのまにかほぼ夢オチしばりであったはずで私もそれに乗っかっていました。名誉のために書いておくと(私は笑いを意識した小咄に仕立てましたが)幻想小説っぽく・童話っぽく・SFっぽく書いていたユーザーもいました。読んでみたい、はてなハイクって面白そう、と思った方がいらっしゃるかもしれません。が、残念ながら27日に消失してます。

こんなふうにあとがきを書くのはいくらか野暮です。しかし根がいくらか野暮なヤツなので続けます。私の手の内をさらすと、オチが決まっているのであとはどうやって膨らますかを考えていました。登場人物を天国から解決策のない悩ましい立場に追い込めてそれを夢オチでうやむやにする、という組立をし、あとは状況と心理を写生?しているつもりです。危機と喜劇は紙一重なのではないかとずっと思って試しに書いていたのですが、どうだろ。ご笑覧いただけたら幸いです。

「電気羊かってなかった…」1

CMで「Alexa,照明点けて」というと照明がつくAmazon AlexaのCMをみた。あれ、泥酔したときにスイッチ紐をなかなかつかめないから、あれば役に立ちそうな気がする。呂律まわってなかったらちゃんと反応するかどうかはわからないけど。 そうそう、役に立つといえばルンバというお掃除ロボットを知っているだろうか。鼻歌を歌いながら床を掃除してくれる、丸くて平べったいやつ。実家では畳の部屋でもつかっていた。隣の部屋にいるとふすまごしにルンバがご機嫌に鼻歌を歌いながらこちらへやってくるのがわかるんだけど、ふすまにゴツンとあたる音がすると歌も遠ざかってゆく。なんだか健気なヤツだよなあ、と感心したんだけど、健気ってロボットに使っていいのだろうか。文学部じゃないからわからないけど。

そんなことを考えながらテレビから視線を外すと机の向こうに電気羊が眠っていた。もしこいつにAlexaみたいに声をかけたらどういう反応を示すのだろう。もしかしたら役に立つことをしてくれるかもしれない。あ、ムリかなあ。ムリかもしれないなあ。でも最初から決めつけるのは彼に悪いか。で、云ってみた

「電気羊、そこの封筒とって」

すると電気羊はおもむろに立ち上がり、あたりを見回して、封筒のありかを探していた。おお、えらいえらい。封筒を認識するとそれをこちらに銜えて持ってくる。おお、すごいすごい。Alexaは動かないけどキミは動く。ルンバは鼻歌付きだけどキミは静かだ。いつも陽の当たる場所で微睡んでることが多いけどもしかしてキミはとても有能なヤツなのか?能ある鷹は爪隠す系?と思っていた次の瞬間、その封筒をゆっくりと食みはじめた。

しまった、その封筒をどうするかまで指示しないとダメなのか。そう思ってもあとの祭り。つか、羊は紙を喰うのかよ。山羊じゃあるめえし。あ、山羊は羊に近いんだっけ?でも電気羊だよな。電気羊は羊の仲間なのか?あ、いやいやそんなことより、おい、ちょっとまて、あそこに置いてあった封筒、明日学務に出すやつじゃなかったか?

「おいやめろ」

封筒をとりあげようと一歩踏み出そうとして、目が覚めた。

電気羊かってなかった…

 (文章を書くことに自信がない中でリハビリとして)はてなハイクで書いた小咄です。はてなハイクで「電気羊かってなかった…」というスレを誰かが立ち上げて、好き勝手に電気羊にまつわる小咄をそれぞれ書いている中に私が投下したもののうちのひとつです。はてなハイクとともに電気羊を消去させるのが惜しいなと考えた4つを別途サルベージしてあってこのダイアリに散発的に載せようかと思っています。ご笑覧いただけると光栄です。しばらくおつきあいください。なお電気羊がなんなのかは最後まで明らかになりません。実は私も知りません。