『私がオバサンになっても』から遠く離れて

特段好きではないけど意図的に聴かなくても勝手に流れてくるのですべては知らなくても耳に残っている曲というのがあります。そのうちのひとつが森高千里の『私がオバサンになっても』で、いまから30年以上前の曲で、曲中に

とても心配だわあなた若い子が好きだから

  森高千里『私がオバサンになっても』

というのがなんべんも繰り返されてます。その頃はガラスの十代だった未成年だったせいもあってこの森高説を「そういうものなのか」と、つまり、他の人から見たら若いほうもしくは若く見えるほうがが良いと思い込んでいました。

話はいつものように横に素っ飛びます。

遊んで生活できればいいですがそんなことはムリで、なので働く上で髪を含めて最低限の身だしなみは整えています。でもって白髪が出て来たとき最初は染めようと思っていました。頭の中に森高説があって「若く見えた方がよい」というのと「若い=黒髪」という意識があったのです。ところが髪をお願いしてるところで相談すると「あなたの頭皮は髪染めに耐えられない」と反対されています。髪が生えてこない頭皮になったら顧客を失うわけですから今から考えると巧い戦略だなと思えるのですが当時は「親身に考えてくれてるのかな」と考えそれを受け入れています。

頭皮は守られたものの抱えてる仕事がややこしいものが増えた時期には(不思議なことに側頭部のみなものの)白髪が増えました。それを見かねてヘアマニキュアを奨められています。しかしヘアマニュキュアというのは白髪が消えるわけではありません。気になる?と彼氏に訊いて「なんで?」とかえってきたこともあり、加えて、その頃社外の人から「見た目と違ってしっかりしているね」という趣旨の誉められてるんだか貶されてるんだかよくわからないことを云われてからは経験則上若く見られるというのがマイナス要因であることを気が付いたせいもあって、ヘアマニュキュアを断っています。

とどめは中村七之助丈の存在です。七之助丈は私より若いのですが、白髪まじりを隠していません。気にしてもいなさそうです。それを見ていて「若く見られるために努力することは努力の方向として間違ってるのではないか」と悟って、森高説に別れを告げています。

今週のお題を引っ張ると

なのですが、私は若く見られるように努力しなくちゃ感が正直ありました。いまは白髪は全然気になっていませんし年相応の見た目になんの迷いもありません。

ところで上記の歌詞の中におじさんになったらお腹出てくるのよと諭す部分があるものの、残念ながら(…残念ながら?)18の頃から体重が60キロ前後でほぼ変化していないので(これをかいてるのはおじさんなのですが)おじさんになってもお腹は出てきていません。だからいまとなっては上記の歌詞の信憑性に疑義が少なからずあります。なんで偶然聴いてしまった曲をながいこと信じてしまったのだろうとその時間を考えるとなんか悔しくて…って、せっかくマジメに普遍性があるかもしれないことを書いたのにそんな結論じゃ、それじゃダメじゃん

( >д<)、;'.・ ィクシ

毎朝出勤前に天気予報で必ず花粉についてチェックする時期になってきちまっています。東京は現時点ではスギ花粉が主体で、私はどちらかというとヒノキに弱いようなのでいまのところ比較的ラクです。とはいうもののスギは来てもヒノキが来ないなんてことはありえないのでつまるところ執行猶予中の身です。

先日、ある乳酸菌飲料を飲用するとが花粉症が楽になる、というのを伝聞で聞いて、疑いつつも「鰯の頭も信心からというし…」と買うかどうかをほんの少しだけ迷い、でも「もしほんとなら大々的に宣伝するよなあ」と考え踏み止まっています。加えて、いまさら対策したところで手遅れかもしれないわけで。あははのは。

勤務先のそばのドラッグストアで値引きのクーポンをつかってやがて来るだろう地獄に備えて鼻炎薬を買い増しました。おそらく来月半ばくらいがヒノキのピークになってるはずなので、マスクを外せそうになかったり。

他人の目の有無

以前勤務先で計算の書類を読んで変だと疑い過去数年分を含めて精査してからそれとなく尋ねたところ「わからないだろうと思った」という趣旨の発言があったのが印象的だったのですがやはり異常があった経験がありました。フィクションを同列に並べるのはどうよ?と思いつつ書くとずっと追ってる青ブタでは(なんでそうなったかは原作をお読みいただきたいのですが)自らが誰にも見えないと考えた桜島先輩は藤沢の図書館でバニーガール姿でうろつきます。いくらか主語が大きいことを書くと、人は他人の目が無いと思うと行動が暴走するのではないかと思っています。

話はいつものように横に素っ飛びます。

隣県に株を持ってる小さな会社が複数あって、この週末に株主総会があったそのうちのひとつはコロナ禍からこちら、来た書類を眺めていると「変だ」と思える項目が複数ありました。お願いベースではあるものの、総会はするけど「なるべく県境をまたいでくれるな」という文言が入っていて2年連続でそれに従っていました。今年もその文言があったものの、県境をまたいでいます。

以下、細かい話になるのですが。

賃借対照表に一年以内に支払う項目として未払金というのがあるのですがここ数年未払金の額が同額でした。変なので「これは内容はどんなものですか」と尋ねると取締役も監査役も誰も答えず・答えられず、3年前の帳簿を調べて貰ったら設備工事をある役員が立替払いをし、会社がその役員に負っている未払金ということが判明したものの、ところが名指しされた役員が「え?おれそんなの知らねえ」と云いだし、同席した会計の担当の方の顔がこわばり、そこから緊張した空気が漂いはじめ、引き金を引いたのは私ですから猛烈に気不味くなってしまっています。再度の精査をお願いすることにして、話を変えようと、勘定科目の消耗品の伸びが前年比5割増しくらいになってるのは何故かを念のため訊いたら(物価の値上がりとかそういうものを予想していたのですが)「1件11万程度の備品を複数買った」との答えで、それはどう考えても消耗品(10万以下)ではなくて備品(11万以上)にすべき話で納得できずに再精査を求めざるを得ず、より気不味くなってしまっています…って私の気不味さはどうでもよくて。

去年一昨年はコロナ禍を奇貨として私のような変なところに引っかかって疑義を申し立てるよそ者を事実上排除できています。今年も同じことをしようとしたのかもしれません。そう考えると目論みを破砕してしまってるので「申し訳ないかな」という気持ちに駅へ向かう途中なったものの、その思考が変であることに気が付いています。でもって「他人の目が無いと思うと行動が暴走するのではないか」という仮説を補強してしまった気が。

さて、おのれを少し甘やかそうと考えて電車の中であおる腹積もりで、駅へ向かう途中の酒屋でワンカップのワインを買うことが出来るので買っています。ところが来た高尾行きの上り普通は地下鉄や小田急と同じ横並びのシートの車両でそこそこ人が乗っていました。残念ながら(…残念ながら?)さすがにワンカップのワインをあける度胸はありません。やはり他人の目があると行動が暴走しないよなあ、と改めて体感したのですがそんなことないっすかね。ないかもですが。

イクラのブリン

これからくだらないことを書きます。

読んだり観たりしたもののなかで予想外の食べものにであうことがあります。たとえば以前観た『ナイル殺人事件』の中にはウツボ料理が出てきました。ポアロはそれを欲したわけではなく、しかし出てきちまっています。なぜそんなことになってしまったかは是非作品にあたっていただくとしてそのとき私は「ウツボって喰えるんだ…」と学習しています。が、どんな味がするのか、実は知りません。もっとも江ノ島水族館で知ったこととしてウツボ相模湾にも居るようで、なので江ノ島茅ヶ崎などで機会があったら食してみたいと思いつつ、残念ながらまだ果たせていません。でもそのうち食べることが出来そうです。

くだらない話を続けます。

チェホフの短編に『愚かなフランス人』(チェーホフ・ユモレスカ‐傑作短編集‐・新潮文庫・2009所収)という作品があり、どういう作品かは是非読んでいただくとして、その中でモスクワを訪れたフランス人がブリン(ブリヌイともいう薄力粉主体のクレープ状のもの)にイクラを載せて食べるシーンがあります。ロシア語で赤い魚卵という意味のクラースナヤ・イクライクラの語源で、ブリンもロシアの料理ですからその組み合わせは決して不思議ではないのですが、悲しいかな私はイクラには醤油を垂らしたい欲求がありますがロシアにはヒゲタ醤油はないでしょうし、あわさったらどんな味になるかが想像がつきません。

ここではてな今週のお題「行きたい国・行った国」を引っ張ります。

私は長崎より西へ行ったことが無いので当然ロシアも未訪問です。大学生の頃に読んで以降、イクラを載せたブリンがほんとにモスクワで食べられてるのか、果たしてどんな味なのか、正直好奇心を持ち続け居ています。でも昨今の状況では当分の間ムリのはずです。

そこでお願いがあります。ここをご覧くださってる方の中で、どこでもドアをお持ちでなおかつ「おもしれえこと書いてるじゃねえか、だったら貸してもいいよ」という方がいらっしゃったら、ご連絡いただけると幸甚です。

20日都内の病院で

いま通院している病院は入り口にアルコール消毒の噴霧器が置かれ、その先には非接触式の顔で測る体温測定器があります。この非接触式体温測定で先月は32度を叩き出していて私にとって鬼門です…ってそんなことはどうでもよくて。幸いなことに院内感染は起きていないせいか、以前は職員が一人張り付いていて監視していたものの(朝いちばんで通院日だったのですが)今朝はその姿はありません。とはいうもののズルするわけにもいかず、手をアルコール消毒し、変顔をしたくなる誘惑に耐えながら検温をしています(35度8分)。

その通院や通勤のために使うJRは首都圏でも有数の遅延の多い路線です。できればホームに居る電車に乗りたい意識が働きます。今日も乗換駅で、発車メロディの鳴りはじめが聞こえ「まっ、まってくれえええええ」と内心思いながら階段を駆け上がり、肩で息をしつつ乗り込んでいます。車内でマスクを外したい誘惑にかられますが残念ながらそれは出来ませんから若干息苦しくなります。これ、何回もやっちまうのですけど、普通のこととしてはまだ慣れません。

はてなユーザ以外の人からすると「なんのこっちゃ」的なことを書くと、ここのところはてなのブログの編集画面には「普通の日記」という文字が必ず目に付くところに載っています。私の活動してる範囲以外はそんなことないのかもしれませんが病院やJRに限らず相変わらず東京はそこかしこに出来の悪いSFみたいなコロナの対策の残滓があって、そのせいか「普通」ってなんだろうという意識が強いです。読んだ本の影響で「人は見たいようにしかものを見ないのでは?」という意識が強いのですが、見たものを「普通」と見做す人の脳内にしか「普通」は存在しないのではないか、と思えなくもないです。もっとも「普通、そんなこと考えねーよ」といわれればぐうの音もでないのですが。

話を元に戻して日記っぽいことを書くと、今日の診察で以前処方されていたもののひとつが「止めていい」ということになりました。それを処方されてから味覚の変化を実感してて、正直「助かった」と思い、「よし、なんか美味しいものでも喰おうか」と会計待ちの間はあれこれ思案して気が大きくなっていました。が、冷静に考えたらある朝突然虫になるように即もとの舌に戻るわけではないことに気が付いて、萎んでいます。はてなのサジェスチョン通りにその日にあった出来事やそれにまつわる心情をそのまま書くと、振れ幅の大きい、まるで大人が書く文章とは思えないものなりそうなのでこのへんで。

電車内で

ここ何年かの低金利政策の影響で新発の国債を買うと現金がおまけでついてきてて、取引のある銀行からその説明をはじめて受けたとき「やっぱ変だよこの国」感がありました。

でもなんですが。

隣県に株式を持っている小さな会社があって、そこは甲府信金から融資を得て数年前に新しい設備を入れています。決算の書類を眺めてる限り今期の業績にその設備があることがプラス要因となってて、しかし低金利を奇貨としてできたことなので「やっぱ変だよこの国」と立場上云い難くなっています。

金融や経済に強くないので話を横にそらすと、その会社の株主総会に出席するために隣県へ向かうまでの電車の車内はまばらだったのですが、インバウンド解禁の効果なのか異国からの旅行客が複数いました。高尾から先はほぼ英語の案内がないせいか、尋ねられています。拙い英語で対応しつつ、最後に儀礼的にVon voyageと口にしてたのですが、それが英語じゃないことにしばらくしてから気が付いています。時すでに遅し。慣れぬことをし浮わついてたのか、なぜそんなことを口走ってしまったか、おのれのことなのに謎です。先方が変な顔をしてたわけでは無いものの「やっぱ変だよこの国」と思われてなければいいのですが。

『神さまがまちガえる』2巻までを読んで

『神さまがまちガえる』(仲谷鳰・KADAKAWA電撃コミックスNEXT)を最近読みました。おもしろかったです…で済ますのがもったいないので、もう少し書きます。

いつものように幾ばくかのネタバレをお許しください。

本作はシェアハウスの大家でかつ研究者でもある姫崎かさねとシェアハウスの住人である綿矢紺を軸に、「左右が反転する」(4話)「正体不明の生物のイメージを具現化する」(5話)などの(想像つかぬことが発生する)バグが起こりやすい社会での物語です。詳細は本作をお読みいただきたいのですが「不眠バグ」が発生する8話まではどちらかというと比較的平穏な話が続きます(平穏っていっても左右が反転したら入力がややこしくなるわけでちっとも平穏ではない旨の表現もあるのですが)。

もう幾ばくかのネタバレをお許しください。いわゆるバグがある間は紺を含む誰もが影響を受けますが研究者であるかさねはそれらのバグに比較的影響されない「原則からはずれた例外」で、傍観者かつ観察者の立場です。9話10話においてもそれは変わりません。が、9話10話はそれまでの平穏な話と異なり紺の出自に由来するエピソードがあり、紺がおのれの存在が他人と差異があり「原則からみたら例外」であることに気が付き、動揺します。紺がどうしたかやかさねがどうしたか等の詳細は本作をお読みいただきたくとして、「原則」があって「例外」があったときに「例外は原則と同じではない」と早計しちまいがちですが・他者との間に差異があったときその差異ゆえに同一視しにくくなりますが、9話10話は巧くフィクションに載せてそれをやんわりと否定していて、読んでヒリヒリ感があって唸らされています。

くだらないことを書きます。作者の前作『やがて君になる』は「特別」という言葉がキーワードとして何度も浮上しシリーズを通して伏流水のように流れていました。9話10話を読んで再度1話から読みかえすと例外であるかさねに原則が適応される紺は寄り添おうとする場面が複数あることからおそらく本作に流れるのは「原則」と「例外」かなと想像しています。どんなバグが展開されるのか?というのもあるのですが伏流水のように流れるキーワードとどう絡めてくるのか予想がつかず、次巻がちょっと気になるところではあったり。