本棚から本を探すことに関して

去春から断続的に網野善彦さんという2004年に亡くなった日本史の歴史家の著作を追っています。恥ずかしながらまだすべては追えていません。最近読んでいたのが西洋中世史家の阿部謹也さんとの対談本『中世の再発見』(網野善彦阿部謹也平凡社ライブラリー・1994)で、以前飛び礫について書いた記憶がありますが、この本を読んで興味深かったのは現在の日本につながる部分について考えさせられる点がいくつかあることです。

たとえばなんすけど。

室町期になると幕府が荘園に段銭を賦課しようとすると荘園の支配層が幕府の奉行人に一献料を差し出し、そうすると段銭を免除されたり使いを荘園に入れなかったりということがあった、ということを網野さんの指摘で知りました(P146)。それを読んだ後に、直接ではないけど権限について影響力を持つ可能性のある政治家の主催するパーティに酒税の扱いについて微妙な時期にお酒のメーカーがお酒を協賛目的で無償で提供したという報道が毎日新聞にあって(それは広告宣伝費扱いなのか交際費扱いなのかという点が気になるのですけどそれはともかく)、ああ室町時代がいまの日本にもあるんだな、李下に冠をたださず瓜田に履物をいれずというのは中国の故事でたしかに日本の故事じゃないよな、などと妙に腑に落ちています。ほんとは腑に落ちちゃいけないかもしれませんが。なお、明治期に穂積陳重先生を筆頭に欧州の人的関係を入れないと近代化できぬと考え法律(のたてつけ)を含め欧州の規範を日本に入れ中世からの慣行を捨て去る方向の政策にはなってることを阿部さんが指摘しています(P148)。でも穂積先生の意図どうりにはならず完全には消えないのが残念ですが。

お酒の席や無礼講についても話が及んでいます。

無礼講になるような宴会を禁止した9世紀末のヒンクマールの禁止令以降、欧州では宴会が厳かになったこと(P136)、欧州には忘年会の概念が無いこと(P136)、パーティなどで酔っぱらってはいけないこと(P136)などを滞独体験を交えて阿部さんは指摘しています。強烈なのは私的な宴会は別として私的な宴会ではない場面では酔っぱらってくだを巻いたりしたら社会的にドロップアウトしてしまうと述べてることです(P152)。話が脱線して恐縮なのですがYURI ON ICEで勝生くんがシャンパンで泥酔するシーンがありましたがあれはNGだったわけで、周囲の視線がちょっと異様だったのがやっと理解できました…ってくだらない話はともかく。対して日本は、沽酒禁制(酒を売ることの規制)はあっても直接的に酒宴の禁止を目的としたものは(留保はあるものの)出てこないのではあるまいかと網野さんは述べます(P150)。また酒の席での無礼については復讐してはならぬという多武峰の法令があったことも指摘してるのですが(P157)、いまでも無礼講というか酒の席での無礼は引き摺らないのが(批判はあるものの)原則ですから、それが悪いかどうかは別として酒の席では断絶が無く「日本はどこか中世を残してるのかもな」とは思えました。

まだ時間意識や贈与に関することなどで語りたいことはあるのですが、詳細は本書を読んでいただくとして。

はてな今週のお題の「本棚の中身」を引っ張ります。

私は本を読んだあと新聞やテレビなどを眺めて「ああ最近読んでた本の内容に似てるな」とか「あの本に書いてあったのはそういうことだったのか」と気が付き、本棚から本を引っ張り出して再度読む癖があります。阿部さんと網野さんの本が確実にそうでした。文庫サイズの本であったのを奇貨として本棚の片隅の「わりと手に取る文庫や新書のコーナー」に入れてあったのですぐ見つけることが出来ています。ただ恥ずかしながら文庫新書以外を入れてある本棚は所有者の雑な性格を反映して整然とは並べていません。しかし本を探したいとき「たいていこのへんにあったはず」というところに仕舞ってあることが多いです。英語の冷蔵庫のスペルを咄嗟に思い出せないくらいに記憶力がよいほうではないのですが、雑多な本棚から探したい本を探すことに関してだけはおのれの記憶力は良いのではないかと思える瞬間があります。もっとも、えばれる話ではないし、脳内の記憶容量の無駄遣いかもしれませんが。

一日のはじめと一日の終わりに

普段は毎朝コーヒーマシンでキリマンジャロを淹れています。しかし期限切れが近い貰い物のドリップパックのコーヒーがあって、眺めてるだけではどうしようもないので湯沸かしで湯を沸かしマグカップにドリップパックをセットしてコーヒーを淹れようとしました。ところがお湯を入れてる最中にコーヒーフィルタの片側が力尽きて脱落しはじめ、「え、ちょっ、まって」と口にしてもやつは重力に逆らってまでは待ってはくれません。あわててスプーンを持ち出してなんとか完全に沈没するのは防げてます。出来たときの見た目はいつもと同じだったのですが少量の牛乳を入れると脱落したフィルタから脱走したと思われる粉が浮かびあがり、そして沈殿してゆくのが見えました。改めて淹れなおしてる時間は無いし「死ぬわけじゃないよな」とそのまま飲んで、沈殿しているだろう底までは飲み切らずに捨てています。捨てながらなんだか敗北感があったのですが…って、コーヒーの話をしたいわけではなくて。

退勤時にドラッグストアへ立ち寄ると接触部が冷感仕様の不織布マスクを目にしています。コロナ禍の夏も3回目になるので(ほんとのところはどれだけの実力かはわからぬものの)そういう商品が出ていてもおかしくはありません。ところが先週、残りが少なくなってるのに気が付いて別のところでマスクを買って(しまって)いました。冷感不織布マスクに気が付かなきゃよかったのですが、時すでに遅し。タイミングが合わなかったといえばそれまでなものの、やはりなんだか敗北感を感じています。

一日のはじめのほうと一日のおわりのほうに敗北感を感じてしまうと、なんだろ、大ポカをやったわけではないものの、運の悪い日ってあるんだな、とちょっと非科学的なことを考えていました。敗北感を感じてしまうと冷静になれず、運とかあるかないかわからぬものに支配され、非科学的になりませんかね。ならないかもですが。

「ゴリラゲイ雨」雑感(そのダジャレ未満の背後にあるものの怖さ)

繰り返し書いているのですが笑いというのは「笑わせる」ものと「笑われる」ものにわけることが出来ます。「笑わせる」のはわりと技量や技術が必要で、落語や漫才では秀でている専門家のことを芸人とか師匠と読んだりします。笑わせる技量や技術が無い人がやっちまいがちなのは他人の属性や他人の住む場所を「笑われる存在」にして笑いをとることです。しかしそれは必ずしも誰もが笑えるものになるとは限りません。むしろとある属性を揶揄する笑いは人を傷つける可能性があります。それが蔓延するととある属性を「笑っていい」というように容認する空気を助長させる可能性があります。もちろん可能性があるという程度の問題ですから必ずそうなるとは限りません。だから笑いと差別は近接してていくらか厄介です。

東急ハンズという専門店が新宿などにあります。そのハンズ公式のアカウントが「ゴリラゲイ雨」というダジャレにもなっていないtweetをして最近批判を浴びていました。ダジャレにもなっていないので目くじら立てるほどではないと考える人が居てもそれは不思議はありません。

でもなんですが。

おそらく法人としての公式アカウントの担当者がオモシロイこと云おうとしてゲイという固有名詞を持ってきたはずで、その根っこにはゲイ≒笑っていいという判断が無ければ成り立ちません。批判を浴びてさすがにまずいと考えたのか「不快に受け止められた方」という語句を含めた謝罪文が後に出てるのですが、この「不快に受け止められた方」というのも不快の意思表示は想定外であったという判断が無ければまず出てこない表現です。

性について明らかにしていない自社の従業員や顧客が、属性を笑う言動で傷つく可能性があるとは思わなかったのか?もしくは、それらの表現で不快になる可能性があるとは思わなかったのか?という点もかなり気になるものの、法人としての公式のアカウント担当者の語句のチョイスにあらわれた軽蔑に値する意図せざる脳内の開陳と、躊躇することなく出してしまう無意識のほうが(それらは遠回しにある属性を笑いものにすることのに自らは違和感がないことの表明であるので)、個人的にはかなり怖いです。

話はいつものように横に素っ飛びます。

「ついスマホに頼ってしまう人のための日本語入門」(堀田あけみ・村井宏栄・ナカニシヤ出版・2021)という本を去年読んでいます。その本で興味深かったのが「自分が間違ってるとは思わないから辞書を引かない」という人の存在で、今回の件も、私はどこか地続きに思えて仕方ないのです。「自分が間違ってるとは思わない」ので、どうかと思うことでもみんな言語化してしまうし、「自分が間違ってると思わない」ので「不快に受け止めた方」という言葉になるわけで。私を含めて誰にでも間違いは犯す可能性があるから言いにくく、そしてどんな思想でも発言の自由はあるので大声ではいえないのですが、ほんのちょっとでもいいからその言葉が相手方に意図どうりに通じるか、ということを考えて欲しいなとは少しだけ思います。

話をもとに戻して、最後にバカにされそうなことを。

私はセクシャルマイノリティに属します。今回の件は快不快で云えば確実に不快です。ですから、ギャグにもならない軽薄な何も考えていない当該Twitterの発言なんて軽蔑して終わりにすれば楽です。しかしながらそれができません。私は学生時代に割引券目当てであったものの渋谷のハンズの画材売り場にお世話になっていた他、親の抗がん剤治療の際に副作用として痺れ等があった状況下で相談に乗ってくれてパイル地のスリッパを薦めてくれた新宿のハンズの店員さんがいて、忘れられない記憶と恩があります。なので法人としての東急ハンズを心から軽蔑しますが、店員さんや現業部門は別と思いたいところがあります。なんだろ、パートナーからDVを受けつつ「あの人、時々やさしいの」的な踏ん切りがつかないのにどこか似てて、明快に嫌いになれず、ちょっと苦しいのですが。

一夜城へ

日曜に小田原へ行ってました(正確に書けば寄っていたなのですがそんなことはどうでもよくて)。小田原は城下町でいまでも小田原城があります。しかし歴史上はもうひとつ城がありました。秀吉が小田原攻めのときに築いたとされるいわゆる一夜城です。市街地から離れてるので一夜城をまず見学しようということになり、箱根ターンパイクの入り口のそばから石垣山をひたすら登って

一夜城の入り口へ。

小田原が陥落してしまうと城としての役割は終わってしまい、いまあるのは石垣だけです。予習してこなかったのでここから先は説明文の受け売りなのですけど、破却の際に行われた石垣の隅などを壊す城割りという痕跡がそのまま残っています。また、やはり説明文の受け売りなのですが、一夜城といっても石垣だけで一か月以上、トータルで80日近くかかっています。さすがに一夜では完成していません。

使われてるのは安山岩で、すぐそばに箱根がありますからおそらく箱根由来の溶岩のはずで、石の産地が近いわけですから一か月で石垣はなんとかなるかも。

なお秀吉の時期の石もそこそこでかいものがあったのですが

江戸期になるとかなりデカい石を一夜城の近辺から切り出していて、途中で放棄されたものが公園内に展示されていました。

木が生い茂ってるあたりにが本丸曲輪で、もともとはここに20mくらいの高さの石垣があったようで。

近くによると石垣の石が転がっています。小田原は関東大震災の被害がデカかったはずで、無理に修復しないでそのままなのが、なんかこう、震災の痕跡としても興味深かったり。

本丸があったあたりから小田原市街を眺めるといまは小田原城は見えません。しかし秀吉は城が出来上がった時点で邪魔な木を伐り、そしていっせいに鉄砲を撃ちこみます。北条側からするとあたかも一夜で城を作ったように見えたであろうことから一夜城という名前が出て来たのですが、ここらへん、伝言ゲームの怖さというか、時間の経過および人の口を経るごとに正確性が欠いてゆく例証になりそうな気が。

さて、山の上で困るのは飲用水です。尾根筋はまず水が出ません。いちいち山の下から持ってくるのは大変です。そして山の上にあるこの城がとった方策は

湧水が出る谷を石垣でせき止める、という力技です。この力技を誰が考えたのかを含めての話なのですが、誰がこの城の縄張り等をしたかは謎らしかったり。

本丸曲輪の石垣が崩れているのにくらべてこの飲用水を得るための井戸曲輪の石垣は400年以上経たいまもほぼ崩れていません。戦国期の石積みの技術、ガチで、ぱねぇっす。

間近で眺めると、マジか、と呟きたくなるほど。

城跡は公園として整備されています。城跡の公園なんか見てどうするの、と最初は内心少しだけ思っていたのですが、石や石垣だけでも時間泥棒で見応えがありました。城跡巡りをする人の気持ちが若干わかったような。

近くの港でおそい昼飯として、アジを食べてます。旬だけあって、ガチで旨かったです。しかし直後に強烈な雨に降られてしまい予定を変更し、小田原城を見学し損ねています。なのでまたそのうちアジを喰いに行く…じゃねえ、登城する予定です。

本棚の片隅の本

零れ幸いという言葉があって、思いがけない僥倖みたいな意味なのですが、知ったのは池波正太郎作品です。「江戸の言葉なんだろうな、なんだか良いな」と思っておのれの語彙の中に入れて、機会があったら口にしてましたし文章にも使っています。ところが、何年か前にBSの池波作品について特集した番組の中で(その頃東大に居た)キャンベル先生が江戸時代の江戸に「零れ幸い」という言葉はなかったことを指摘していました。ナンダッテー!=͟͟͞͞(꒪ᗜ꒪ ‧̣̥̇)と思いつつもしかし不思議と悔しいとももちろん騙されたとは思えずにいます。よくできたフィクションだからかもしれません。はてな今週のお題が「本棚の中身」なのですが、池波作品は捨てずに本棚のある程度のスペースを占めています…ってここで終わればいかにも読書家っぽい誤解を与えることができるのですが私は残念ながら読書家ではありません。気になった本を読んでるだけの一介の(勤務先は4階の)サラリーマンです。

取捨選択が下手な人間で本棚はひとつだけでは収容しきれず、デッドスペースになっていたところに文庫や新書が収納できる小さな本棚を別途設置しています。池波作品もそこに入れてあるのですが

縦に並べるだけでは収まりきらず横にして置いてる始末で、つまるところ、本棚を美しく見せようという意識は全くありません。ちっともきれいではありません。ほら、そもそも本や本棚って見せびらかす前提じゃないじゃないですか…って苦しい弁明になっちまうのですが。

更にその本棚の片隅には歴史や紀行、エッセイ、小説の文庫や新書等を並べてあるのですがまったくまとまりがありません。表紙カバーがまだ残存してる比較的キレイ目で、かつ、内容があんまり重くないやつを選抜して置いています。この中から1冊抜き出してカバンの中によく放り込んでます。何の目的で?っていわれるとキツイのですが、(JRが事故や故障で止まることが多い地域なので)電車が止まったときや病院の待合室などですることがないとき(あんまり理解されない性癖かもしれませんが)なにか読んでいたいのです。なので途中で中断しても良いように何度も既読の内容を熟知してて、かつ、何度も読める本だけ置いていて、たまに入れ換えます。多分本棚にそんな「わりと手に取る本だけのコーナー」を作るのは少数派だと思います。なお、そのコーナーで並んでる本で簡単に手に入るとはいえ仮にいま持ってかれると少し動揺する本を三冊挙げると『赤めだか』(立川談春・扶桑社文庫)、『有頂天家族』(森美登美彦・幻冬舎文庫)、『中世の再発見』(網野善彦阿部謹也平凡社ライブラリー)です。内容は知ってるのですが、万一、盗みに入っても持って行かないでいただけるとありがたいです。

つらつら書いてて気が付いたことをひとつ。零れ幸いという言葉を私が体内に取り込んだように、本は読んだ人の一部になる可能性があります。『君の膵臓をたべたい』では好きな本は人となりを表すとも言っていました。そこらへん考えると、読む本はその人の内面を知る手掛かりになる、とよくいわれますがあながち間違ってないかな、と。そうすると、わりと手に取る本棚の本がまとまりのないことを明かしてしまったので、私がまとまりのない内面を持つ人間であることが晒してしまってる気が。

でも、まとまりがなくてもなんべんも手に取る本に出合えたこと、それらを増やす時間があったことはラッキーだったかな、と。

このブログについての賢くない選択(もしくは「収益化攻略」の文字を見て)

私が利用してるのははてなブログです。たぶんPCで閲覧すると左上に収益化攻略と書いてあると思われます。はてなユーザー以外の人がここを確実に読んでいる(可能性が高い)のでちゃんと説明すると、最近はてなはてなブログの収益化というのを奨めています。営利の法人ですからその姿勢は理解できなくもありません。しかしながら個人的にはそういうことをするつもりがまったくありません。

いくつか理由があります。

一つ目。なんども繰り返し書いていることですがはてなには以前はてなハイクというSNSがあって、そこで私は質疑応答を含めて「日本語で書いてあるけどなにをいってるのかわからない他人の文章」に出くわしています。その「他人が書いた文章が理解でない」経験をしちまうと「おのれが書いた文章は他人が理解できない可能性もある」ことに気が付いています。じゃあ、誰もが理解できるような・意思疎通ができるような文章とはなんなのか?という素朴な疑問に行き着くのですが、明快な答えはわかりません。しかしひとつのヒントとしては同質性の有無が考えられます。同じ同質性を持つと判断すると人は説明を省きがちになります。話を戻すとそれらの経験を通して「なにをいってるかわからない文章を書きたくない」という意思を強く持つようになっていて、いまに至ります。その延長線上にこのダイアリがあって、もがいています。訓練のために書いてる文章で収益化というのは考えていません。お金が欲しくて書いてるわけではないからです。

なお名誉のために書いておきます。「日本語で書いてあるけどなにをいってるかわからない文章」を書いた人には多くのフォロワーが居ます。(読んでわからなかった文章を書く人が複数居るのですが)その人たちの文体を真似して同質性を持てばその人の言ってることがわかるかもしれません。しかしながら身をもって「誰もが判る文章」ではないと理解してるわけで、うっかり真似るわけにはいきません。できない相談です。

二つ目。ここ数年、自分が読みたいと思うようなものを自分で書いておきたいという変な意識が強くなっています。でもって、それらが万人受けするとは限りません。 もし収益なんてのを意識しだしたら私は軽薄なのでそれらを絶対書けなくなる≒ストレスになるはずなので、近寄るつもりがありません。

三つ目。歳をとると自慢話と思い出話と説教話しかしなくなる、と高田純次さんが述べておられたのを以前読んだことがあってそれは醜悪かもしれないと思い、そうなったらいつでも止められるように、なるべく撤退は容易にしておきたいというのがあります。収益なんてのを意識したら未練がでるでしょうから、したくないのです。

「収益化が可能な機会がある」のに「それを選択しない」のは、なんとなく賢くない選択に思えるかもしれません。しかしながら愚行の自由ってあると思ってて、人って賢くないことをしても良いと思うのです。賢くないやつのブログをどれほどの人が読んでいるのかわかりませんが、いましばらくお付き合いのほど、よろしくお願いします。収益化を奨めるのがイヤでも目に入るのですっごく居心地は悪いですが。

さて、最後にくだらないことを。

今冬、着せ恋というアニメを視聴していました。滅多にアクセス解析等を眺めないのですが先日(月が改まって100PVを越えると表示が出るのですがそのときに)眺めた折、着せ恋について書いた文章にアクセスがあるのを知り「おおおお」と、海獣のような声が出ています。上記で「日本語で書いてあるけどよくわからない文章」のことについての経験を長々と書いているにもかかわらず、私は日本語にもなってないよくわからない言葉を口にしています。でも嬉しいと日本語にもならない言葉を口走ってることってないですかね…って、人は思ったことを口にすることがある以上はおまえが賢くないだけだと云われそうなのでこのへんで。

『作りたい女と食べたい女1』

本やマンガをたくさん読んでいる人が世の中に居て、昼間働いているのでそれほど読めるわけでもなく、なのであんまり読んでいるほうではない奴が読んだ本やマンガについて何か書くということに最近若干の抵抗を覚えているのですが、なにも書かずにいるのがちょっともったいないものに出会ったので書きます。

『作りたい女と食べたい女1』(ゆざきさかおみ・KADOKAWA it comics・2021)というマンガを読みました。料理を作るのが好きな野本さんが以前フライドチキンの大袋を抱えていた隣室の春日さんに声をかけたことを軸に物語は進みます。私は性根がひん曲がってるので「フィクションとはいえそんなうまい話あるかいな」などと最初は思っていました。しかし話の展開が巧く読んでるこちらを物語の中へ引っ張り込む力があるほかに、話数を重ねるごとに楽しそうに餃子やおでんなどを作って食してる野本さんや春日さんを眺めてると(ウマが合う人と食べると楽しいという経験がこちらにもあるせいか)第1話で感じていた違和感は確実に些細なことに思えてどうでもよくなってきてます。

いくばくかのネタバレをお許しいただきながら続けます。野本さんは自作の弁当を作るのですが、第一話で勤務先で異性の同僚から貶されるわけではないものの「女性として良い」という観点から言葉を投げかけられます。

自分のために好きでやってるもんを「全部男のため」に回収されるのつれーなー

と野本さんは沈んだ気持ちで腹の底でつぶやくのですが、性別が異なるとはいえなんだか理解できなくもないと思えました。沈んだ気持ちをどうやってアゲさせたか?は是非本書をお読みいただきたくとして。また、春日さんは過去に餃子とライスを食べてるときにそれが邪道であると通を自称した異性から云われた経験を持ちます(5話)。それをどうやって黙らせたかは本書を読んでいただくとして。これらの弁当のエピソードも餃子のエピソードも決して笑える話ではありません。でもこの国では有り得そうだと思えて仕方なく、この作品にいくばくかのリアリティを与えているはずです。食べることを主題にしていますが確実に単純な料理漫画ではないです。

巻末に近い8話では野本さんと春日さんは柔らかい方がいいのか固いほうがいいのかを含め議論しつつ炊飯器でプリンを作ります(詳細は本書をお読みください)。冷静に考えると大人2人がプリンを真剣に作ることはいくらか滑稽なのですが、読んでるうちにこちらに伝染したのか決して滑稽に思えなくなっていました。というか、コスプレを題材にした着せ恋もそうだったのですが「好きなことを追求している人たちの物語は眺めてるだけでも面白い」です。

ただいくつか引っかかった点があります。たとえば作中に仙台味噌が出てきて仙台味噌で焼きおにぎりを作るのですが仙台味噌がどんな味かがちっとも説明がなく、非仙台民なのでそれがどんな味なのか想像がつきませんでした。美味しそうなのはわかるけど作者および登場人物と、読んでるこちらの間には壁が確実にあります。誰もが理解できるような描き方はなされていません。

2巻まで出ているのでそれを読んでから書こうか迷ったのですが、とりあえず1巻は巻末まですんなり読めました。ここを読んでいる人がどれくらいいるかわからぬものの念のため書いておくと、お腹が空いているときには読むべきではない一冊かも。