モノレールに乗って江ノ島へ

そこに寺があるのかは全く不勉強なので知らないのですが、大船には観音様が居ます。正直に書くとほんとに観音様かどうかもよく知りません。でも一応観音様とかいておきます。くたびれたおっさんであるわたしが子供のころにはすでに居て、その頃から茅ヶ崎藤沢方向から来て大船を通過する東海道線を観音様は監視していました…じゃねえ、その頃から観音様を東海道線から眺めることができています。東海道線に限らず大船から江ノ島行きのモノレールが出ていて

そのモノレールの車窓からも観音様を眺めることが出来ます。くだらないことを書くと大船の観音様は鎌倉の大仏をほうを向いていて、夜になるとこっそり鎌倉まで逢いに行っている、という噂は県境をまたいで多摩地域までなぜか伝わっていました。もちろん誰かが逢瀬を観測したわけではありません。が、観測して確定したわけではないので大仏さんが観音様に逢いに行ってる可能性も否定はできないかな、と。ただ

モノレールに今回乗って車窓を眺めてはじめて知ったのですけど、湘南深沢、片瀬山、目白山下といったモノレールの駅名が表すように鎌倉は山がちなところで、その逢瀬は大変そうだなあ、という気が。

くだらない話はともかく、モノレールの終点は湘南江ノ島駅といい、山がちな路線ゆえに勾配を少しでも楽にするためか駅はビルの4階にあります。ゆえにちょっとした富士を眺める展望台もあり、私のデジカメで撮るとちっちゃいですけど目視するとけっこうデカい印象です。そのモノレールの駅から

感染対策はしっかりする前提で第五波の前にも神頼みしに来た江ノ島江島神社へ、第六波が大きな波になる前に休みを奇貨として神頼みしに行きました(海を観たかった、というのもあるのですが)。

辺津宮へ続く狭い参道はできたてのたこせんべいを買い求める列などがあり(確かに美味しいのでそれは責められない)そこそこ混んでいましたが、それ以外はさほど密にはなっていません。

奥津宮へ行く山二ツというところで海を眺めてるとき、後ろの方でシーキャンドルという灯台をおそらく指して

「あれ、なに?」

という子供の声がし

「あれはトウダイ」

と親御さんが答え

「じゃあ、東大王が居るの?」

とさらに質問しながら去ってゆきました。どってことない会話がついツボに入ってしまい「おい笑うなよ」とゲラであることを熟知してる隣の彼氏から小声で忠告を受けつつ、確かに笑ったら見知らぬその子は傷つくでしょうから振り向かずに必死に堪えています。こういうところで底の浅さも自覚しちまうのですけど、ちゃんと笑わずに答える自信がないので、教育とか子育てに不向きなのかもしれないと改めて思っちまってます。神様の居るようなの場所って、ふとした拍子におのれに足らぬところを自覚させられることってないっすかね、ないかもですが。

山がちな鎌倉市内を縦貫するモノレールに乗ってそれを体感したせいもあるのですが江ノ島から腰越鎌倉方面を一望出来る場所で、鎌倉ってほんと山がちなのだな、と気が付きました。もちろん日本史の教科書で学生時代に鎌倉の特性は習って記憶していたもののちゃんと理解してなかったというか。ついでに書くとこの景色、前にも眺めているのですけどそこまで気が付いていません。なんだろ、ほんと「人は見たいようにしかものを見ない」という以前読んでいた本の主題を改めて痛感してます。

1月はシラスの禁漁期なので生シラスはおあずけで、釜揚げシラスを使った丼を食べて藤沢にお金を落としてきました。第六波をやり過ごせたら生シラスを食べに来るのを兼ねて御礼参りで江ノ島を再訪するつもりです。

続・ここ数日の寒さ(もしくは雪の日の記録)

なんどか書いてることなのですが、関東は北西の風が秋から春にかけて吹き、異論はあるかと思うものの関東の冬の寒さというのはこの風の寒さの影響が大のはずです。今年は例外として例年実際に氷点下になる日はそれほど多くはありませんが、風が吹けば体感は寒かったりします。私用で着る防寒着はほぼ腕から風が入ってこないような腕がすぼまった状態のものを着用することが多いです…ってくたびれたおっさんの冬の私服なんてどうでもよくて。

6日の日中に降りはじめた雪は多摩東部では

私がややはやめに帰宅した頃にはやんでいました。(写真は通勤途上なのですけど)あまり積もってはいませんでしたし、場所によっては除雪などもしてあったところも複数あったのですが。

が。

朝になってみると、あいかわらず北西からの風が強く、通勤途上の経路の一部は木に着雪した雪とも氷の粒とも思えぬものがちらちらと降ってくる状態でそれが朝陽に反射してきらきらと輝きそれはそれできわめて幻想的な光景だったのですが、残念ながら早朝に氷点下になる気候は年末から継続中で風も吹いていますからその雪とも氷の粒ともつかぬものがところかまわず着雪し凍結し、幻想的な風景の中でも当然昨夜のように写メなど撮る余裕もなく、歩くのも小幅で慎重にあるいて北西の風に耐えながら駅まで向かっています。加えて前夜除雪してあったはずのところも当然一部凍結していて、しかし幸いなことにスっ転ばずに済んだのですが、なぜかふくらはぎの筋肉を使った感が勤務中に残っていました。

氷点下ひと桁とはいえ寒さに雪と風とが加わると、ちょっとキツいっす。都民は冬に弱いといわれるとぐうの音のでないのですが。ぐう。

「回し呑み」のこと

柳家喬太郎師匠の「時そば」のまくらにコロッケそばにおけるコロッケについて描かれたものがあります。動画でそれを知ったのですがいちど聞いてしまうと忘れられなくて、箱根そばなどでコロッケそばを見るとつい「ふふっ」となるのを必死に堪えることがないわけではありません。立ち食いそばの店にも「黙食」と書いてあることがあるのですが、いまのところコロッケそばを見て思い出し笑いで黙食を破ったことはありません…って書き方がまずかった。コロッケそば以外の理由でも立ち食いそば店で黙食を破ったことはいまのところありません。

秋に山梨へ行き大浴場のあるところに泊まり足を伸ばして入るお風呂を満喫してきたのですけど、そこでは「黙浴」と書いてありました。目が良いほうではないのでシャンプーとリンス、ボディソープは間違えないように確認するのですけど、視認性のよいものではなかったのでまごついていると見かねて「それリンス」とそれとなく注意を受けています。他に人が居なかったからセーフのはずですが、黙浴は破っています。

話はいつものように横に素っ飛びます。

年末年始に録画しておいたものをここ数日少しずつ視聴してて、歌舞伎と落語を比較したBSフジの番組で立川談笑師匠が古典落語の「二番煎じ」を少しだけ演じていました。本筋とは関係ないのですが興味深かったのは談笑師が「いまと違って当時は杯や茶わんは一つで酒を回し呑みしていた」という趣旨の解説していて、その様子だけが落語の一部に残っているようで。以前読んだ本(「江戸幕府感染症対策」安藤優一郎・集英社新書・2020)で享保の27年間に疫病が12回程度あったことに触れていたのですが、おそらくその飲酒の習慣がいくらか関係していてもおかしくは無いような。話を戻すといまでも屠蘇やお流れ頂戴とか杯の回し呑みが無いわけではないけど、いつのまにかほぼ廃れて滅多にありません。その回し呑みを止めたのはいつのころからかはわからぬものの、ここから先は人力詮索になってしまうのですが、やはり過去の感染症対策の影響なのかなあ、という気が。

黙食や黙浴がコロナの後も定着するかどうかはわからぬものの、杯の回し呑みのように、年表にあらわれることのない歴史とも文化ともつかぬものって音もなくすっと消えてゆく・変わってゆくのかもなあ、と改めて思いました。最近、通勤途上にある居酒屋さんがいつの間にか黙食でも商売できそうな定食屋に転身してるのに気が付いたのですが、実際に世の中ちょっとずつ変わってきてるような。

2日、西武柳沢で(もしくは「ちょっと変」)

去年、奥秩父の三峰へ行ったときに「神主さんの日常」(瀬上あきら著・マッグガーデン・2013)という三峯神社が協力したマンガを買っています。神主さんがどういう日常(婚活を含む)を送ってるのかというのを含め絵馬や神饌についての解説などが書かれていました(詳細は是非お読みください)。ちょっと興味深かったのがおみくじに対する考え方で、御神慮≒神様の意見であってそれを持って帰って読み返して良い方向へ努力するための考える材料にして欲しい、と書いてあったことです。三峯ではありませんが以前、凶を引いて「いまよりそれほど悪くならないってことだから、ドンマイ」と彼氏から云われつつも、あまり読まずに境内で結んで帰って来たことがあるのですが、それは神社としては本意ではなかったわけで。結んでも無かったことにはならぬものの、ただ上記のマンガによると、神様と縁を結ぶという意味はあるようでちょっとほっとしています…って、書かねばバレぬ無知を晒してる気がするのですが、私のことはどうでもよくて。

話はいつものように横に素っ飛びます。

西武新宿線西武柳沢という駅があって、そのそばに東伏見稲荷というそれほど大きくはない神社があります。字面を読んで察していただけると思いますが、京都の伏見稲荷の分霊を勧請してできた稲荷です。毎年なるべく正月に詣でて、去年は控えたのですが今年は2日に古い御札を返しに行っていました。一昨年より参拝者は少なめなのものの、一昨年に比べて御札の授与の列・おみくじの列がけっこう長くなっていました。「今年はちょっと変だね」と云いながら御札の授与の列に加わったのですが、後ろに並んだ親子連れ(っぽい人たち)も「今年はちょっと変」的なことを云っていたので、誰がどうみても「今年はちょっと変」なのかもしれません。ついでにかくと、境内にはおみくじもあるのですが、神様と縁を結ぼうとしても引いたおみくじを結び付けるところは既になく、それでも結び付けようとして失敗したおみくじがいままで記憶にない程度の数、散乱していました。それを見てもやはり「今年はちょっと変」感が強かったです。

とはいうものの。

人力詮索さてはになっちまうのですけど、去夏、東京では政治家は別として仮に感染しても病院などで適切な治療を受けられるとは限らない状態であったことを思い起こせばできることのひとつとして御札や御守りを授与してもらおうというのはわからないでもなく・ひいたおみくじで神様と縁を結ぼうというのもわからないでもなく、そう考えればちっとも「ちょっと変」ではないです。が、もちろんその場では空気を読んで自説を封じています。たぶん「ちょっと変」の理由は誰もが判ってて口にしてないだけ、のはず。

外出時のマスク着用・手洗い励行などの感染対策をして、個人でできることは限界がありますが来るかもしれない第6波をなんとか乗り切りたいところであったり。間の悪いことに仕事がすこし忙しい時期に入ってしまったのでほんとは来てほしくは無いんですが。

玉締めゴマ油

健診で異常が見つかって、結果的に問題ナシとなったものの、結果が判るまで一時的にドクタから塩分を控えめにするように云われたことが以前ありました。そのとき豆腐に醤油が使えないのが痛く、代替をいろいろ模索してて試してあんがいイケたのがゴマ油です。柚子胡椒を少量載せ、塩分がほぼ無いゴマ油をかけ、最後にネギを加えることで、醤油をかけるより塩分控えめになっています。塩分控えめ解除後も夏場を中心にこの組み合わせはなんべんもやっています。もちろん柚子胡椒とゴマ油はどこのメーカーでもそこそこイケます。

でもなんですが。

埼玉の松本製油というところの玉締め絞りのゴマ油を使ったら他のごま油に戻せなくなりました。ここのところずっと使っています。ゴマ特有の香ばしさはあるのですが、どこかほんのり甘く、香りがよく、豆腐はもちろんのことすりゴマ代わりにお浸しにかけたりとか調味料がわり的に使うようになっています。炒め物はもちろん、汁物に少し加えるのもアリです。しかし安くはないので(成城石井で700円弱くらいで日常的に使うにはいくらか抵抗があって)ふんだんには使いません。

美味しいと感じるのは経験と思い込みが何割かあると睨んでるのですが、経験と思い込みではない残りの何割かのうちの嗅覚による食欲をそそる部分に、このゴマ油の香りは訴えてきます。

御存知のように東京は緊急事態宣言出てる時期が去年は長かったのですが、ちょっといいこのゴマ油が家にあってそれを念頭に「なにをどうやって食べるか」を帰りの電車の中などで考えるのは、悲観的になってくる思考を切り替えるときにたまに役に立っていました。はてな今週のお題が「買ってよかった2021」なのですが香りの良い調味料は、なんかこう、あるだけでも生活の質を上げてくれるような気が。そんなことないっすかね。食いしん坊なだけでもしかしたら一般性はないかもですが。

年末のごあいさつ(もしくは今年読んだ本について)

「去年今年貫く棒の如きもの」ってのが虚子の俳句にあるのですが、去年と同じなら今年もきつい状態は続くのではないか?と悲観的な予測をして、担当する職務で松が明ける前から虚子の俳句は一切出さずに悲観的になるよう資料を整えはじめ周囲を説き伏せ対策の準備して、詳細は書けぬものの結果的には命拾いしたというか功を奏したものがひとつあるのですが、こういう予測はあたってもちっともうれしくありません。ただ仮に「去年今年貫く棒の如きもの」という虚子の仮説が正しかったとしたら、来年もまた悲観的になってしまいかねず、それはそれできついものがあります。もっとも「去年」と「今年」が「棒のようなもの」っていったって誰も見たことがなく、誰かが観測して存在が確定したわけではありませんから、棒と断定されたわけではありません。もしかしたらバールのようなものかもしれぬわけで…って、そんな話をしたかったわけではなくて。

話はいつものように横に素っ飛びます。

第五波の頃、私が住む東京は一時期連日五千人以上の新規感染者が出ていた時期があります。その頃「感染するかどうかは運次第」というのを見てしまってるのですが、「去年今年貫く棒の如きもの」と同じくらい運というのはあるかどうかあいまいなもので、あるかどうかあいまいないものゆえに「感染しなかったら運が良かった」「感染したら運が悪かった」というようにどこにでもくっつきやすく、非科学的かつ断定があるゆえの理屈ではない妙な力強さがあって、感染予防の行動が意味が無いようにも取れるのでその言説は厄介に感じていました。職務の都合でリモート勢ではありませんからもちろん手洗い励行・マスクをしながら都心部への通勤を継続してて、個人的には「非科学的な運なんかに左右されてたまるかよ」と本気で思っていました。

さらに話は横に素っ飛びます。

第五波の直前の頃には、接種券は来たもののワクチンの目途が一時期たたずにいて、もちろん海を見たかった・アジを食べたかった、というのもあるのですが江ノ島の弁財天へ行って神頼みをしています。その後、8月と9月の第一週にモデルナのワクチンを接種でき、感染もせずに第5波を切り抜けることが出来てます。切り抜けてみると正直なところ「これって江ノ島の弁財天のおかげなのだろうか」と思えてきてしまっています。

「貫く棒の如きもの」を松が明けぬ頃にどこか信じ、さらにワクチン接種と第五波を切り抜けたことを「江ノ島の弁財天のおかげ」と考えてる時点でわたしは非科学的で、しかし「非科学的な運に左右されてたまるかよ」なんて本気で考えていたので、だもんで、これを書いてるやつは矛盾のかたまりです。この1年で人として軸がブレてることを改めて自覚しました。また、どこかわかりやすい理由・おのれが納得しやすい理由を欲しがる弱いところをこの1年、改めて自覚しています。それが矯正可能かどうかはわかりません。たぶん無理かも。

ここ何年か年末に読んだものについて書いてる(はずな)のですが、軸がブレてるやつ・知らぬうちにわかりやすさを求めてるやつ・矛盾のかたまりなやつが、なにを読んだかについて書いても「だからなんだ?」ということになりそうなのですが、今年買った本で強烈に印象に残ったのをノンフィクション・フィクションで2つほど。

 

gustav5.hatenablog.com

ノンフィクションだと「感染症の日本史」(磯田道史・2020・文春新書)です。刊行されたのは去年ですが、読んだのは今年です。関東大震災の死者数よりスペイン風邪の死者数が多かったことや幕末の歴史と感染症が微妙にリンクしてることを恥ずかしながら磯田先生のこの本ではじめて知りました。また感染症が怖いものであったとしても個人レベルで「興味>恐怖」のとき、人は容易に怖いものに近づいてしまうことが描かれてる志賀直哉の流行感冒も取り上げていて、第三波の直後に読んだこともあって、歴史が遠いものではなく地続きというか妙に近くに感じたのを強烈に覚えています。

 

gustav5.hatenablog.com

ちょっと紹介しにくいのですがフィクションだと「やがて君になる」(電撃コミックスNEXT・仲谷鳰・2019年完結全8巻)という女子高生同士の恋愛が主のマンガです。第四波の頃につい手に取ってしまい、巻数を重ねるごとに微妙に変化してゆくのですが、その変化がセリフやコマによってわりと緻密に描かれていて続きが気になり、読んでるうちに度数の高い酒を呑んだようなヒリヒリとした感覚がやめられなくなり、週1ペースで買っています。マンガですが今年読んだフィクションでのなかで、現実を忘れてフィクションの海に溺れる快感という点では、ピカイチでした。

本ついでに書くとずっと追ってるラノベの青ブタの新刊が今年はなく続きが読みたいのに読めない焦らされてる感覚が新鮮で、来年は青ブタの新刊があると良いのですが、って…ちがう、そんなことはどうでもよくて(本音はどうでもよくないのですが)。

くたばらねば来年の今頃は今の状況より状況が改善されてれば良いのですが、もしそうなっていたら来年の今頃に、本のことを含めてこんなふうにくだらないことを書けてるはずです。虚子の仮説のように去年今年貫く棒のようになってるのか、それともバールのようなものになってるのか、まったく違うのか、こればっかりはわかりません。くたばるとしてもギリギリまでここは続けるつもりでいて、いましばらくのお付き合いのほど、よろしくお願い申し上げます。

ここ数日の寒さ

いま住んでいるところは東京の郊外で都心部よりいくらか気温が低めです。ここ数日朝の気温が氷点下まで下がっています。前夜の予報ではマイナス3度という予測だったにもかかわらずマイナス4度だったこともあります。なぜかイラっとして「外れるならあたたかい方に外れて」と口にしてました。差が1度なのでたいして変わらないはずなのですが不思議と敗北感があって、しかしなにに負けたかはよくわかっていません。寒い朝ってイラっとしたり意味不明な敗北感を感じたり…ってことないっすかね。ないかもですが。

最寄りの駅は高架線上にホームがあって、待ってる間寒いんすけど、待合室があることはあるものの感染対策で常時開けっ放しにしてあるので入ってもさして意味がありません。覚悟を決め(るほどではないけどともかく耐え)て電車をまっています。通勤に使う路線は新型コロナ感染予防のため窓がある程度開いていることがあって、そのそばに乗車してしまうと不思議とやはりここでも敗北感があったりします。寒さと敗北感の関係は横に置いておくとして、窓が開いてたとしても閉めることは往路も復路もまず誰もしません。

コートやマフラーで対策はしていますが、ここのところの朝晩の寒さで以前より肩こりが増した気が。肩こりのときに風呂場などで肩を伸ばすストレッチをしてるものの、その風呂に必要なお湯を沸かす給湯器は以前氷点下5度まで下がったとき、北側にあるせいか凍結してしまっています。なので氷点下になると毎朝、給湯器から温かいお湯が出るとホッとしています(シャレじゃなくて)。給湯器が壊れたらなかなか新品に交換することが出来ないという報道も知ったせいもあって、なんだか綱渡り感もあるのですが。

寒くなると汁物が美味くなるという利点がありますが、ひと桁の氷点下に慣れぬせいか「はやくあったかくならんかな」感がここ数日あったりします。しかしまた寒波がやってきちまうようで。それを知ってやはり妙な敗北感があるのですが、理屈でないところで寒さって敗北感を感じやすくなりませんかね。ないかもですが。