幕の内弁当における醤油および蒲鉾問題

幕の内弁当というのはだいたい蒲鉾と卵焼き、それに鮭や鯖などが入っています。そうでないと幕の内弁当という名を(認証団体があるわけではないとはおもうものの)名乗れないからです。卵嫌いなので卵焼きはまず最初に食べて弁当内に存在などまったく無かったことにして改めてほかのもの食べるのですが、残りはかまぼこと鮭もしくは鯖などの焼き魚、それに横浜駅崎陽軒であればシウマイが加わり、静岡駅の東海軒であればわさび漬けにエビフライなんすが、地域の名物や根菜などの煮物や漬物などが入ることが多いと思います。

これから書くことはいつものようにとてつもなくくだらないことです。

東海道新幹線の東京駅には歌舞伎という弁当が以前あって季節によって弁当のおかずが異なってたのですけど、弁当内に醤油やソース両方が入ってることがありました。シウマイが入っていればそれに醤油を、揚げ物が入っていればソースを、と添えてある意図を理解できます。しかしいつだったか揚げ物などの肉類のところにソースが、鮭と蒲鉾と卵焼きのところに醤油が添えてあって、それまでいちどたりとて蒲鉾に醤油をかけて食べる習慣が無かったので「もしかして蒲鉾は醤油をかけて喰うものなのだろうか」、焼き鮭に醤油をかけて食べる習慣が無かったので「焼き鮭は醤油をかけて喰うものなのだろうか」、という疑問が湧いて一瞬躊躇してます。もちろん正解はわかりません。正解があるかどうかも知りません。そのときは「まあ、かけてみるか」と割り切って食べてますが、その後二度と焼き鮭には醤油はかけなくなっています。醤油ついでに付け加えると東海軒の幕の内弁当にはエビフライが入ってるのですがついてくるのは醤油です。最初、エビフライに醤油?と思ったのですが、これは受容出来ています。

土地柄もあるかもしれないのですが、東海道線沼津駅の桃中軒や富士駅の冨陽軒、静岡駅の東海軒には幕の内にわさび漬けが入っていて、どういう意図で添えてるのかは知りませんが個人的には蒲鉾にわさび漬けを付けて食したりします。その味を知ってしまうとこんどは蒲鉾が気になります。新大阪駅で売っていた幕の内弁当は醤油もわさび漬けも入ってなかったことに気がつくと、蒲鉾はもしかして味や食べ方に地域差があるのではないかと想像するのですが、実証するほどお金にも時間にも余裕がないので謎のままです。仙台駅あたり笹かまになにかしらつけるものがあるかどうかとか気にはなるのですが。

はてな今週のお題が「お弁当」なんすけど、駅弁は幕の内弁当ひとつとってみても個人的には(成功も失敗もあるのですが)未知の味覚との遭遇があったり、さらに地域によって差異があってそれを目や舌で知ることができるので(+そういうくだらない探求がとてつもなく好きなので)、コンビニで買うよりちょっと高くついても出かけた先では駅弁を買うようにしています。また電車に揺られながら弁当を喰える日がはやく来ると良いのですが。

背中の筋肉痛もどき

ユニクロにはチノパンなどにスリムフィットというのがあるのですが、腿が太いので買ったことはありません。18からこちらずっと体重は60キロのあたりをさまよっててメタボではないもののスリムフィットがキツイ時点でたぶんスリムではありません。スリムってなんだろうって考えさせられるのですが、そんなことはどうでもよくて。

上半身は華奢なのですが腿に限らず下半身は無駄にしっかりしてるのでぎっくり腰は一度も経験したことがありません。だからといって力仕事に自信があったわけではないものの、土曜日に引越しの手伝いを乞われて「お安い御用だ」と請負っていました。都民は都県の境をなるべく越えてはいけないらしいのですが先約を優先してて、なので私は不良都民です。

手伝いそのものは恙なく終了したのですけど今朝になって背中がうっすら筋肉痛になっていました。正確に書けば筋肉痛もどきというか痛いってほどではないのですが違和感があるというか。安請け合いして日頃使わない鍛えてない上半身の筋肉を使ったから自業自得なんですが。背中に足を載せて軽く踏んでもらったら気持ちいいだろうな、と思いつつ、日曜の朝に変な性癖の実行をお願いするみたいになりそうでさすがに恥じらいがあって口にはしていません。

おっさんの恥じらいはともかく、少し離れたツタヤに行く途中で気がついたのですが

東京ではシャクナゲが咲きはじめました。現場からは以上です。

「流行感冒」を読んでの雑感

少し前に志賀直哉の「流行感冒」について書いた記憶があります。再度書くとスペイン風邪のときのことなのですが、志賀家で雇っていた女中さんは表面上は感染症を怖がっていたけど我孫子の街に芝居が来たらこっそり行ってしまいます。「興味深いもの>感染症の怖さ」のとき興味深いものを優先してしまうことってあるわけで、前にも書いたのですが人の行動って変容が難しいと思われます。もう少しネタバレをすると感染症に対して警戒していた志賀直哉自身も植木屋が自宅に来たときに一緒に力仕事をしてしまいます。それがどういう結果を招くかは本を読んでいただくとして。

三回目の緊急事態宣言に突入するのはほぼ確定してて休業要請などが大型商業施設や映画館などに出るようなのですが、志賀直哉の事例のように実は自宅へ第三者を招いてそこからってのもあるわけで、ほんとは「どこで感染しやすいか」というわかりやすさより「どういう状況で感染しやすいか」をしつこく伝えた方が良いのでは?とシロウトは考えちまうのです。植木屋さんを招く事例は稀にしても感染拡大時には飲食店での飲食以外も気をつけたほうが良いのでは?感染が拡大した失敗事例をテレビ等で広報したほうが良いのでは?とは思うものの、私が偶然みてないだけと思いたいところ。

8時にネオン類が消灯と聞いて都民は蛾扱いなのか?と思ったものの、それが行動変容に結び付けばいいのですが、どうだろ。

個人的なことを書くと恥ずかしながら仕事が若干忙しくて倒れるわけにはいかないと考えてて(相変わらずパプリカを歌ってるつもりが雛祭りと混同して赤いお顔の右大臣が出てくるのですけどともかく)念入りな手洗いなども含め若干神経質になってる気がしないでもないのですが、しばらくこの神経質を続けるつもりです。

もっとも近所のスーパーで灘の酒がかなりの値引きで売られててその背景を考えるとあまり良いことではないような気がしますが、神経質な対応だけでなく、適度な喉の消毒もしながら乗り切りたいところ。

「コロナ前には戻れない」という言葉を耳にして

東京の蕎麦の場合、海苔を散らした蕎麦のことをハナマキそばということがあります。なんでそんなことになったかは謎で、海苔を磯の華と呼んだからとか、海苔を花が散るようにはらはらと撒いたからだとか(この場合せっかちな江戸っ子がそんなことをするのかという疑問がある)、ともかく諸説あります。海苔を散らした蕎麦を素直に海苔そばといわぬようなひねた根性の蕎麦店はいまでもあって、東京でチェーン展開している小諸そばという店ではハナマキそばはないものの文字を眺めただけではおそらく見当がつかない「月夜のばかしそば」というメニューがあります。種明かしをすると蕎麦の上に天かすとお揚げ、それに卵が載ってて、「たぬき」と「きつね」と「月見」が同居してて、ひねって「月夜のばかしそば」です。卵が載ってるので卵嫌いな私はいちどたりとて「月夜のばかしそば」食べたことはありませんが、小諸そばは価格が安めで勤務先のそばにあってたまにお世話になっていました。

過去形で書いたのはいくらか遠くへ移転してしまったからです。小諸そばの近くにやはり価格が安い富士そばもあったのですがやはり同じく消えてしまっています。別にかなりのめんくいではないものの比較的安めの博多うどんの店を近くにみつけて「おっしゃラッキー!」と思っていたら今月で閉じる予定です。地下街にも以前はどさん子ラーメンというのがあったのですがコロナ禍の景気悪化で消えちまいました。どさん子ラーメンに限らず、この1年で閉じてしまった店は景気悪化や再開発等で地下街も地上もけっこうあります。

もちろん地下街にはもう一軒それほど高くない蕎麦屋がまだありますし、値段さえ気にしなければパスタ専門店やしゃれた蕎麦店が、ちょっと歩きますが讃岐うどんの店やほかのラーメン屋もあることはあります。

でもなんですが。

選択肢が少なくなってきてつくづく実感することなのですが、選択肢が沢山あるということは、豊かな証左なのではあるまいか、と。書けば書くほど舌と消化器と感情がつながってることの証明になっちまうのですけど、美味しいものが身のまわりから消えてゆくというのは(豊かではなくなりつつあるのを知りつつも)悲しいものがあったり。

「コロナ前には戻れない」という語句を見るたびに・耳にするたびにそれらは理屈ではわかってるのですが、こうやって書いたところで事態が変わるわけではないのですが少しだけめんくいなほうとしては「せめて麺類だけは戻してくれないか」とどこか思っちまうのです。

8のつく日のヨーカドーで

歩いて行ける範囲にヨーカドーがあります。ヨーカドーには電子マネーnanacoというのがあるのですが、8日にそれを使うと5%引きになります。たかが5%ですが5000円買えば250円で、ヱビス1缶くらいは買えますから8のつく日にまとめ買いのためヨーカドーへ行くことが多いです。

人が多くはなさそうな時間を狙って行ってみると特設コーナーが設けられてて何のためとは一切表示がないものの、大量の米とカップ麺が大量に陳列されてました。米はまだ半月分くらいあるので私は買うことはしなかったのですが、山積みされた米とカップ麺を眺めてて「やっぱ来ちゃうんだよな」という実感が。人流を減らすのが良いというのは理解してて、非リモート勢でできることといえばスーパーに寄らずに済む日を増やすことぐらいですから、そのために冷凍野菜やツナなどの缶詰なども買い増ししました。

でもなんですが。

京都府在住の知り合いから夜に電話があってひとしきり話し込んだあと、なんとなく訊いてみると近所のスーパーではカップ麺や米の大量陳列などないそうで。東京もんはビビりやなと思われたかもしれず、云わなきゃよかったな、と思ったものの、ほんと後の祭りです。いまさらどうしようもないので買い増した冷食や缶詰は第4波がきたら状況を見ながら美味しくいただく予定です。

藤の花咲きはじめ

ニンジンを熱が通りやすいように薄切りにしてフライパンに敷き、そこに豚バラを載せ、塩とローリエと適量の水を入れて煮立たせた後に蒸し煮にし、皿に移したあとに挽き黒コショウをかけて、ということをしていました。根もの野菜で日持ちする割にニンジンというのは見た目の食欲をそそるので上のような調理をして第一波のときと第三波の時にヘビロテしたのですけど、第四波を前にうさぎが人間に反旗を翻して千葉のニンジン畑を占領して手あたり次第喰いつくしたのではないかと思えるほど今春はなぜか近所のスーパーではニンジンが異様に高く手を出しずらい時期がありました。

なるべく外出するなという都庁の御触れは知ってはいるのですがバターが切れてたのを奇貨として雨も上がったし外出しようと決意し、店を変えればニンジンもそれほど高くないのでは?と踏んでいつもと違うスーパーへ行ってみると1本98円相当まで下がっていて、産地の人には申し訳ないと思いつつちょっと安心しています。第四波は正直「しんどいな」的なところがあって、でも食欲をそそるものがあれば私は生きて行けそうな気がするので、ニンジンも利用して凌ぐつもりです。

いつもと違うスーパーへ行く途中の公園で、藤の花が咲きはじめていました。去年の藤の花が咲くころはマスクのことで右往左往していたものの感染症がこんなに長引くとは思ってなかったのですが、来年の藤の花咲くころには収束しててほしいところ。

曇天なので白い藤はちっとも見応えがありません。現場からは以上です。

恐怖以外のもの>恐怖、のときの行動(もしくは「流行感冒」を読んで)

先月に磯田道史先生の「感染症の日本史」を読んでいて、先日はそれについて書いています。その「感染症の日本史」の中には志賀直哉の「流行感冒」という作品がダイジェストで紹介されていて、ぜひ詳細は磯田先生の本か小説自体をお読みいただきたいです。しかしちょっとだけネタバレをお許しいただきたいのですが、いわゆるスペイン風邪が住んでいる我孫子の街まで波及してることが述べられています。書いてる当人は小説の中の言葉を借りれば衛生思想があるのですが、住み込みの女中さんは衛生思想からではなく主人公らが怖がってるのに引き摺られて怖がってるところがあり、そんな中で我孫子に芝居の一座がやってきます。芝居をめぐるそのひとりの女中さんの行動と事実を知った主人公の行動が作品の中では描かれています。

いつものように話がすっ飛びます。と同時に、ちょっと上品ではないバカにされそうな話をします。

以前、(大人のおもちゃがわからないよい子のみんなはわからなくていいことなのですけど)リング式の大人のおもちゃを付けたことがありました。どこにどのようにつけるかはご想像にお任せしますが、調節機能があってMAXの表示があり、MAXではどうなるのだろうと興味を思って個人的に試して悶絶し、観察していた彼氏に止めて外してもらったことがあります。どうしてそんなことをするのかと呆れられたのですけど、興味>恐怖であったので好奇心に引き摺られちまったわけで。興味や好奇心に任せた結果実際にどうなるかを一度でも経験した今は、恐怖を味わう可能性があると考え、なるべく興味やあふれる好奇心を抑えるようになっています(大人のおもちゃだけではなくて)。

話をもとに戻すと、もうちょっとだけネタばれをすると小説の中にでてくる芝居に興味を持った女中さんは芝居へいってしまいます。その女中さんがどうなったかは繰り返しになりますが作品に触れていただくとして。興味に引き摺られてた・興味>恐怖であったかつての私に似てるなーと読んでて妙に親近感をもっていました。現在歌舞伎座では仁左衛門丈と玉三郎丈の桜姫東文章をやっていてコロナ禍でなければ幕見の列に並んででもみたいと思ってる程度に私も芝居好きだからよりそう感じてるのかもしれません。

あちこち話が飛んで恐縮です。

東京では感染者数はまだ3ケタですがじわじわと変異株の拡大の影響があるようで、「不要不急の外出はしないで」とか「県境を越えた移動は控えて欲しい」とか「買い物は3日に一度」であるとか、人の流れを抑えるための協力を求める役所のアナウンスを目にします。しかし人々がコロナへの恐怖より大きなものを抱えてる場合(例えばそれが文化的なものに触れたい欲求であるとか美味しい食べ物を食べたい欲求であるとか)、もしかしてそれらのアナウンスは意味を持たないのではないか・行動を変えるきっかけにはなりはしないのではないか、とは我が身を振り返っても・小説の女中さんを眺めてても思うのです。恐怖以外のもの>恐怖の状態である限り、人はそう簡単に行動を変えないはずです。じゃあどうすればいいのか、っていうのも、正直わかりません。もちろん各個人の感染症対策が功を奏せばそれにこしたことはないのですが。

幸か不幸か興味のままに流されると恐怖を味わうことを私は股間の経験から勉強しましたがあくまでも個人的体験です。ですから大口は叩けません。ただ「流行感冒」を読んで、そして去年の四月に比べて感染症に対する恐怖が薄れてるようにも見える現在の社会の状況を考えるとちょっと怖いな、とは思っていて、人の流れをあまり抑え込むことができないのではないか、と悲観的に予想しています。

ここらへん、杞憂であればいいのですが。