酒粕を覚えた

何年か前にNHKBSで京都の商家の料理の番組が流れてて、そこで酒粕を使った汁ものである粕汁が出てきました。両親は酒どころの出身ではないので酒粕の料理をそれほど知らずに育っています。酒粕で思い出すのは強いて言えば魚の粕漬でそれを食べたことはあっても酒粕を汁に入れたものを知識として知ってても、酒粕の料理を映像で見たのはそのときがおそらくはじめてでした。

先月、寒くて食欲が若干落ちていたときに退勤時に寄ったスーパーで決して高くはない酒粕が目に留まってそういや京都はこれで汁物作るんだっけ?と好奇心が疼き、一人の夕飯のときだったので失敗したらそのときはそのときだと割り切って大根と油揚げと鮭で酒粕汁を作っています。失敗せず捨てずに済んでその後も作り、ほかに酒粕の利用法を知らぬものの焼きそばにあうのではないかと考えてひとりではないときの昼飯にやってみたらコクが増して案外イけて、最初の酒粕を使い切ったのですが。

ふふふ、面白い調味料を覚えたぞ、常備する調味料に格上げしよう、次は炒飯かうどんか、前回サワノツルだったからこんどはキザクラのにしようか、とスーパーで手が伸ばしかけたところでカッパと目があって、もしかしてこれ、のんだくれの酒飲みの発想とどこか似てるのでは?と正気になって手をいったん引っ込めてます。確認したら度数もちゃんとあって、あったらどんどん使ってしまいそうなので、加えて誘惑に弱くお酒にあいそうなものができてしまうので酒を引っ張り出しそうなので、常備にするのは断念しました。寒いときの食欲のないときの処方箋を見つけた、と思ったのですが。

梅も途中でまだ寒い日が続くのですけど、なんとかやりすごします。

はたらく細胞6巻

知識が無かったことを書くのは勇気が要ります。でも無かったことを有るように書くのもおかしいのでちゃんと書くと、私は20年以上前は基礎的なことを含め医学に関する基本的な知識がそれほどありませんでした。死んだ父は血小板が減少して死に至ったのですが、赤血球と白血球があることは知っていても、血小板がどういう働きをするかを父が入院するまで正直ちゃんとは把握していませんでしたし、血小板が足らないことがどういうことか理解出来ていたかというとかなり怪しいです。血小板は血管壁が損傷した場合にその傷口を塞ぐ趣旨の説明をあらためて受け、父の病室に戻ると父の身体の内出血のあとの意味を理解して、事態の深刻さを悟っています。

一昨年の夏に血液の数値がおかしくなりはじめて、そのあたりから「はたらく細胞」(清水茜講談社シリウスコミックス)の存在を教えてもらって読みはじめています。「はたらく細胞」では血小板は幼児のような姿の「血小板ちゃん」として補修のプロとして切り傷や最新刊ではたんこぶなどの対応を含めて活躍しています。読みながら「ああ20年前にこれを読みたかった!」と本気で思いました。読みはじめた頃は赤血球の値がおかしかったのですが「はたらく細胞」の赤血球さんはどちらかというとおっちょこちょいに描かれてるのを読んで調子がおかしいときには「赤血球さんがなにかしでかしたのだな」とおもうことで納得してやり過ごしていましたし、白血球が減っているときは「雑菌をぶっ殺す」というキメ台詞がある白血球さんが少なくなってるのだから感染症に気を付けなくちゃな、と考えるようになっています。なんだかこう書くと40半ばを過ぎたのおっさんの書く文章ではありませんが、「はたらく細胞」のおかげでおぼろげな知識が前より鮮明になりおのれを納得させたり何に注意すればいいのかうっすら気がつくようになってて、実感としてはいくらか賢くなっている気がしています。

前置きが長すぎた。

はたらく細胞」の最新刊である6巻が発売されてて読みました。iPS細胞や新型コロナなど注目度の高いものについても取り扱っています。iPS細胞に関しての話も興味深かったのですが詳細はお読みいただくとして、やはり新型コロナを扱った部分が個人的に読めてよかったです。

恥をさらすと以前から新型コロナに関連してサイトカインストームという言葉をちょくちょく耳にしつつもどういう状況かを理解してるとは云えなかったのですが、本作では免疫反応が過剰に起こることでウイルスに冒されてない細胞まで攻撃してしまう≒免疫系細胞たるキラーT細胞がどってことない細胞まで殴る、というように置き換えていて、はっきりしなかった知識がいくらか鮮明になっています。そのサイトカインストームが仮に全身で起こり得ててもちろん肺とて無傷でいられるわけがなく、肺の機能が低下すれば酸素が行きわたらず多臓器不全を起こしがちになるのですが、本作ではそれらがストーリー仕立てで展開していて何が起きるのか・何が怖いか、などがそれなりに理解できましたし、赤血球さんの運ぶ酸素がキーになってくるのですが、読んでてああそういうことなのか、と腑に落ちています。わたしのように知識の欠損がある人間にはちょっと読む価値はありました。

シリーズはこれで完結、のようです。もう出会えないことは新型コロナ以上の得体のしれない病気と闘わずに済むことなのでそれはそのほうが良いのですが、一抹の寂しさがないわけではなかったり。

登戸駅にて

死んだ父の命日が近いので隣県へ行っていました。

それとはほんと関係ないくだらないことを書きます(いつもくだらないこと書いてますが)。

登戸という駅で小田急線に乗り換えて利用して隣県に入ることがあるのですが、その登戸駅には近くにある(らしい)藤子F不二雄ミュージアムとタイアップした仕掛けがいくつかあります。いちばんわかりやすいのがエレベータで、

どこでもドアを模しています。前から存在を知っていて、人がいないときにいつか乗ってやろう、と思っていて、人もおらず「チャンス!」とばかりに待っていたのですが、後ろから「あっ、どこでもドアー!」との複数の小学生の声が。振り返りこそしなかったけどどうも並んだみたいで、小学生と同じことを考えてるのかと思うとこっぱずかしくなってきて、結局階段を使いました。

さらにくだらないことを書きます。

百人一首を最低30ほど覚えなくちゃいけなかった10代の頃にいちど「暗記パンがあればな」と思ったことはありますが、いまは暗記したいこともありません。博多華丸大吉師匠の漫才で「ドラえもんの秘密道具の中から一つ貰うとしたらなにか?」というのがあって登戸駅に来ると思い出すのですが、いざ大人になると難問で、迷いませんかね?そんなことないか、な。

他人の意見の陳述に飽いてる空気

文章を書くときに苦労するので日本語すら満足に使えないおのれに嫌気がさすくらい日本語の知識が無いので言葉に関してえらそうなことは書けませんが、この10年くらい引っかかる言葉があります。たとえば前の首相がよくつかっていた「させていただく」がそうで、「する」意思を持つ人がへりくだりつつ、同意を条件にしてるように見せてはいるものの、ほんとは他人の異論なんかないことを前提としてる曖昧模糊とした言葉で、同意を条件にしてるようにもみせてるので異論があって断れば悪い人間にまつり上げられる可能性を秘めてて、すごくいやらしい言葉です。もちろん前の首相がどういう意図で使ってたのかはわかりませんし、前の首相に限らず個人の感想としてはここ10年くらいよく耳にするようになっている印象です。

「させていただく」は本来はすべては阿弥陀如来によって生かしていただいてると考える、絶対他力の考え方のある浄土真宗門徒の言葉で、絶対他力があってその上でお蔭という発想があって「させていただく」なのですが、いまは阿弥陀如来浄土真宗も関係なく妙なつかわれ方をするようになってるように思えます。ここらへん、日本人と信仰と言葉の関係が希薄になってるとか、言葉は生きているとか余計なことを云いたくなってしまうのですがそこらへんは置いておくとして。

話をもとに戻すと異論を封じ込めやすい「させていただく」にずっと違和感をもっていて、なんでこんなに浸透したのだろう、と長いことを不思議に思っていたのですが。

今朝、毎日新聞に載っていた五輪の組織委員会のトップの発言の要旨の文章を読んでいて、性別に絡めて会議などにおける意見陳述や議論が長くなっていることを嘆いてるように私は読めました。

考えすぎかもしれませんがその会議に対しての嘆きは「させていただく」と根っこでつながっているはずで、主語が大きいかもしれませんが、この国はもしかして他人の意見を聴くことなどに飽いてる空気があるのかなあ、と思えました。わたしも長い会議のようなものは大好きでたまらないというわけでは決してないのでヘタなことは云えません。ただ、人は他人の意見などに触れて考えを修正することがあるので、「させていただく」などのやんわりとした異論封じ込めや議論が長くなることへの嘆きというのが垂れ流される状況は、あんまり良くない方向へ全速力で進んでいる兆候である気がしてならなかったり。

パソコンの修理を経験して

パソコンを触りはじめた初期の頃に、パソコンってのは猫みたいなもので、暑いと動きが鈍くなる、猫がひとつのことしかできないのと同様にいっぺんにいくつも指示をしたらとまどう、ってなことをいわれてます。それが妙に印象的で、猫を飼ったことはないもののなんだかパソコンの中に猫をみちまう・猫を飼ってる感覚があります。個人用のパソコンはいま3匹目…じゃねえ、3台目です。一昨年の秋にうちに来ました。

このパソコン≒猫という感覚があるのでちゅーるこそ与えていませんが乱暴に扱ったことは一度もありませんでした。ところが先月中ごろ、ACアダプタをつなげても通電せず、バッテリからしか通電しなくなりました。気がついたのがバッテリの残量が半分くらいになってからで、dynabookのあんしんサポートに連絡を取り、dynabookのスタッフの方の電話の指示通りに試行したら故障判定でした。

dynabookには修理状況を伝えるページもあって電話番号を入力するとアバウトな現況がわかります。予告では7日から10日だったのですが、日通航空のスタッフの人が引き取りに来てから数えて9日目に電話番号を入れて確認すると修理工場を出荷してて、ほんとに10日で戻ってきてて、日通航空さんが去ったあと、思わず「すげえ…」とつぶやいちまってます。同封されてたペーパーによるとメイン基板の故障によるものという診断で、メイン基板を交換したとのことでした。買うときに変なところでケチるな3年保証を入れておけと強く助言を受けててそれがまだ生きていたので資金的負担はゼロです。

忙しかったってのもあるのですが、このダイアリを一時更新しなかった理由の一つはパソコンの故障もあります。すこし時間があるときに眠らせてた二台目を立ち上げるとまだ生きてたのでいくらかは更新しましたが、帰宅してからパソコンに触らぬ読書中心の生活も楽で悪くありませんでした。いざとなったら、おれ、ほんとネットなしでもいいかも、とも思えています。これ、わかりやすい文章を書くというおのれに課した目標からずれてるので確実になまけ癖なのですが、楽したいなまけ癖の萌芽を確認できてます。

電源を入れて立ち上げると「おかえりなさい楠田(仮)さん!」と出てきました。それを眺めて思わず笑っちまったのですが、どうもわたしのパソコンからするとわたしが家出猫のようにどこかほっつき歩いてた感覚のようで。もっとも、いままでパソコンの中に猫がいる感覚だったのですが、なんだろ、楽したいなまけ癖を考えるとほんとは私のほうが猫に近い可能性を否定できにゃいかも。

黒塚もしくは鬼のはなし

歌舞伎の黒塚という演目に鬼が出てきます。奥州安達ケ原で山伏たちが老婆の住む小屋に一泊し、老婆はなぜ奥州に居るのかや一人で小屋にいるのかなど語りつつ仏教の話になり、仏教の話に触れた老婆が寝床を覗かぬようにと釘をさしつつ山伏たちのために薪を探しに行き、老婆の居ない小屋の中で随行の山伏が寝床を覗くとそこには大量の死体があり実は老婆の本質は鬼で、逃げ出した山伏たちを老婆が目撃し何が起きたか悟った老婆は鬼の形相で彼らを追う…という話で詳細とどうなったかの結末はぜひ歌舞伎座などでご覧いただきたいです。

はてな今週のお題が「鬼」です。鬼というとどうしても桃太郎の悪者退治のイメージがあってなんとなく鬼≒悪という先入観をもっていたのですが、黒塚を歌舞伎で観たあとはそれが揺らぎました。どうしてもひっかかるのは「覗くな」という老婆の願いを叶えなかった・隠していたものを露わにした山伏の従者で、信用したのに希望がかなえられず裏切られた時、そして隠したいものがあるときにそれを暴こうとされる時、人は人ではなくなりやすいのではないか?とか考えてるうちに・知らないうちに鬼に同情的になってます。

鬼ってなにかはわからぬものの鬼が人として正常な判断ができない状態ならば、私は性のことで隠したい事柄があって継続してて、でも隠したいものを暴かれたら正常ではいられない確信があって、もしかして私も鬼に容易になり得るのではないのかな、という気が。

ところで大江戸線に乗ると「鬼殺し」という銘柄の酒の広告が車内に長いこと継続して掲示されてます。その名前のお酒の存在は歌舞伎を観るようになる前から知っています。実際、ヨーカドーなどでも扱ってはいるのですがなんだかずっと手に取ってはいけない気がしてならず、ながいこと避けていました。私の本性は鬼なのかもしれず、もしかして鬼の本能として避けてたのかも(冗談です)

佐賀の病院への寄付

博多から鹿児島本線に乗って久留米方向へしばらく行くと鳥栖という駅があります。有名な場所ではちっともなくて、大きなサッカースタジアムがあるのでサッカーに詳しければ別として、誰もが知ってる街ではありません。その鳥栖にサガハイマットという重粒子線治療センターがあります。おそらくサッカースタジアム以上に誰もが知ってる施設ではないはずです。

がんを治療するとき外科手術のほかに抗がん剤などの化学療法、それに放射線を照射することがあります。放射線もいろいろあるのですが、電子より重いものを粒子線とよび、より重い重粒子線を照射してがんを叩く方法をいまは場合によってはとることができます。ただしどこでもその設備があるわけではありません。九州では鳥栖のサガハイマットのみです(他にあるのは大阪、兵庫、神奈川、千葉、群馬など)。

親ががんで闘病していたこともあって親が死んだ後もがん治療の領域への関心が捨てられずにいて、ずっと意識的にがん治療の報道は追っていて、重粒子線治療の施設はおそらく儲かるわけではないのは予測できてて、(はてな今週のお題が「ふるさと納税」なのですが)ふるさと納税のそのシステムを使って寄付を募ってるのを知ってからは寄付をしてます。

寄付をすると佐賀のホテルや佐賀牛のお店などが値引きになるカードを送付してもらえるものの九州に住んでいるわけではないので・縁もないので使う機会はありません。適宜送付してもらえる広報誌を読む限りコロナ禍のなかでも(進行するがんを扱うだけあって)治療を止めなかったことが書いてあって、ああよかったという安堵と、それを教えてもらえただけでも充分かな、寄付したお金はたぶん有効に使われてるだろうな、と思えました。

ここで書くのを止めれば美談になるのですが。

佐賀牛は美味しいらしいのを最近聞いてしまって、いまはぜんぜん気にならないわけではないので、いつか佐賀に行けてカードを使って佐賀牛が喰えたらいいな…くらいの上品ではない希望がまったく無いわけではなかったり。