知識の欠損に関しての個人史(もしくは「やってTRY」のこと)

じゃがいも、ニンジン、タマネギに肉という取り合わせで肉じゃが、豚汁、カレーライスを作るところから私の料理歴ははじまってますが幅広いレパートリーがあるわけではありません。だから知らないものがけっこうあります。少し前にはメニューに載っていた利休煮がわかりませんでした。訊くは一時の恥と考えて店の方に尋ねたらきちんと教えてもらっています。あとで陰でバカにされてた可能性もありますが、人は歩く百科事典じゃないので知らないものがあって当たり前という意識というか開き直りが私はあります。もちろんそこにたどり着くまでは結構時間がかかったのですけど。

いつものように話が横に素っ飛びます

東京ローカルな話で恐縮なのですが、日曜の午後にTBSで噂の東京マガジンという番組があります。私が高校生の頃には既にあって、その中に街中で十代二十代の若い人を捕まえて料理を作ってもらう「やってTRY」というコーナーがありました。けっこう意地悪で関係ない食材も用意して間違ったものや失敗したものが出来てもそのまま放映し、あとでプロの作った正解を流すのですが、番組内のナレーションや番組進行全体としては知識の欠損・知らないことを笑うような流れになっていました。知識の欠損・知らないことが多かった10代後半にそれをみた私はそれがけっこうショックで、「知らないことは笑われる」という意識を植え付けられています。加えて大河ドラマや歌舞伎などで吉良上野介はそれほど知識のない浅野内匠頭をバカにする姿をみて、知識のある人は知識のない人をバカにする・知らないことがあることは知ってる人からバカにされやすい、ということを補強して学習していました。知識の欠損というか知らないことが多かった私は十代の後半から微妙に劣等感を抱えて大人になってます。

ところが社会に出て、士業の人を含め仕事で関わり合いのある専門知識豊富な人と・趣味を持ってるやはり特定の分野で知識が深い同僚などと話していると、知識豊富な人は(よほどの知ったかぶりをしない限り)まず知識のない人を・知らないことが多い人をバカにすることはないよなあ、と思うようになっています。また人を教える立場に一時的になっていたときは我が身を振り返って知識の欠損を責めることは逆効果なのでは?ということが容易に想像できたので、そのようなふるまいは他人にしてません。とどめを刺したのが京博がリニューアルしたときのNHKによる紹介番組です。(年が近いはずの)青木さやかさんが出ていて率直にそれほど知識が無いことを述べていてその上でふと
「知識がないから恥ずかしい気持ちが」
といいかけたとき、ホスト役の千宗守さんが
「その恥ずかしいと思う気持ちがいけない。向上心を妨げるのではないですか」
と畳みかけながら諭していました。知識が無いことを恥ずかしいと思うことが間違ってるという指摘は青木さんに云ったのであって私に云ったわけではないのですが、青木さんと似たような感覚を持っていたので、考え方を変えようとそのとき思っています。言うは易く行うは難しでまだゼロには出来ていませんが、でも知識の欠損を以前よりそれほど劣等感には思わなくなっています。

そんなふうに変な影響を受けた「噂の東京マガジン」の番組終了をここで知りました。「やってTRY」がいまも続いてるのかどうかは知りません。というのは人の無知を笑えたら楽しめたのかもしれないものの高校生の頃に数回視聴したあとはイヤな気分になるものを率先して視聴したいとは思わなかったのでまったく視聴してないからです。それでも強烈な印象を残したので個人的には「やっと終わったか」という感想しかありません。長く続いたのは支持されて人気があったからだと思うので、こんな感想、もつの少数派かもしれませんが。

「有頂天家族」を読んで

森見登見彦さんの有頂天家族幻冬舎文庫)を読みました。面白かったです!で済ますのはもったいないのでいくらか書きます。

多少のネタバレになるのをお許し願いたいのですが主人公は狸で、出てくるのは主人公の狸のほかには天狗と人間です(こう書くとなにを云ってるかわからないと思いますが)。ファンタジーといえばファンタジーではあるのですが、しかし文章がところどころ講談を文字起こししたようなリズムのある独特の文体です(正直に書くと慣れてしまうまで最初の数ページはとっつきにくかった)。そして

「信じてはいけない、樋口一葉というのは、雨樋の端に枯れ葉が一枚引っかかってるということさ。秋の寂しさを表した四文字熟語だ」

「さすがだよ、兄さん。僕もおおかたは分かっていたんだ」

(「有頂天家族幻冬舎文庫・P86)

 (上記の部分を地下鉄の中で読んで吹き出しかけてひと駅近く堪えるのに必死で以降地下鉄の中で読むのをやめたのですが)会話を含めて文章が不意に読者を笑わせにかかることがないわけではないのでファンタジーというくくりは妥当ではないような気がしないでもないです。でも内容は思いもよらぬ奇想天外で痛快な(主人公は人ではないものの)ある家族の物語です。

些細なことなのですが非常に緻密に伏線が張られ、ラストに向かってその伏線を回収してて唸ってしまっています。また舞台は京都で、糺の森や六角堂、夷川発電所南座や新京極六角公園といった京都ゆかりの地名が出てきます。絶対ありえない現象が物語の中の京都で起きるのですが、読み終わったあとでは「あり得ないことが起きてても不思議ではないかもな」と思えるくらいにはなっています。なんだかすごいもの読んだぞ感のある、蠱惑的で知らぬうちにひきずりこまれる物語でした(私にとっては)。

以下、くだらないことを。

世に蔓延する悩み事は大きく二つに分けることができる。ひとつはどうでもよいこと、もうひとつはどうにもならぬことである。そして、両者は苦しむだけ損であるという点で変わりはない。努力すれば解決することであれば悩むより努力する方が得策であり、努力しても解決しないことであれば努力するだけ無駄なのだ。

(「有頂天家族幻冬舎文庫・P72)

本筋とは全く関係ないのですが、努力して解決しない事態に直面して引用した言葉の通りにするかどうかは別として(つまり無駄な努力をしてしまうことはあるのだけど)、6割くらい似たようなことを考えて生きているので、読むまでおのれが狸か狐かなんて意識したことが無かったのですが読んでいて「ああ、おれは狸であったのか」とおのれを再発見しています。この歳になってそんなことに気がつきたくはなかったのですが。

東京の状況はなんだか第三波に向かって全速力で突っ走ってる感もあるのですが・それとはまた別にちょっと忙しくなりつつあるのですけど、続編もあるようなのでそれを楽しみに日々やり過ごします。

断定のある文章

ここ何年かずっと気持ち悪いと思ってることがあって、その一つが断定があって説明がない文章です(文章に限らないこともあるのですが)。

それを最初に意識したのははてなで数年前に読んだ文章です。ある作家に言及してる人がいて、その人は「格が違う」という不思議な理由で批判していて付和雷同もできず、どこがどういうふうにというのはなくて読んで戸惑ってました。しばらくしてから、まず「格が違う」という断定があって、断定ゆえにそのあとの説明が続かなくて・断定が説明する必要性を排除してて、(その人のなかでは異論をはさむような他人がいなくて)その人はそれで納得されてるのだと思うのだけど結果読んで戸惑ってるこちらが置いてけぼりにされてることに気がついています。どんどん話がそれてしまうのですがこの他人が書いた文章を前に戸惑うという経験は私の書いたものも他人にわかるとは限らないという点にさらに気がつかされて、そして文章は脳内の思考回路がそのまま現われるのかと気がついて、反面教師になったのは確かです。

もっとも私の思考回路が変なのかもしれません。20年以上前に私が居た大学の教育は「答えは一つとか限らない」「なぜそう思うのか」というのをわりと問われ叩き込まれました。条文や判例を覚えるほか学説というのがあって他人の考えを叩きこんでその上で判断をして問いに答える訓練をしています。わりと思考の中に他人の存在があって「なぜそう思うのか」や「判断の理由をどう説明するか」を意識してます。他の学問をほぼ知らぬのでそうやって生きてきたので、断定があってその断定があるゆえに説明を省く、というのに違和感を感じるのかもしれません。どこか気持ち悪いのです。

変かもしれないものの続けると、断定がある文章が怖いと思ったこともあります。2018年のドイツの各州の選挙のとき、米国の大統領が難民が増えたからドイツの犯罪が増えたという趣旨のtweetをし(事実は2017年は逆にドイツ統合後犯罪率がいちばん低かった年であったのだけど)それを信じてしまう人が増えた、という毎日新聞の報道を読んで海の向こうのこととはいえ、裏付けのない事実に基づかぬものは害悪すらあるんじゃないか、と思っています。断定は断定ゆえに強くて、裏付けや説明が無くても印象に残るのかもしれないのですが。

話はいつものように横に素っ飛びます。

政治的なことは書くつもりがあまりなかったのですが、書きます。そのTwitterを裏付け抜き+断定多用で良くも悪くも駆使して政治を動かしてきた米国の大統領の再選が厳しい局面になったのは個人的には米国の人たちは賢明な判断をしたと思うしその判断はとても腑に落ちます。Twitterを含め、誰もが気軽に情報発信できることは決して悪いことではないはずなのですが、裏付け抜き+断定多用の情報操作で世の中を動かせた事実を振るかえると、いまの世の中やはりどこか怖いよなあ、と思っちまったり。

私個人は物わかりが良くなく違和感を持つとなかなか抜けないのですが、付和雷同もできぬこの性格の悪さ、孤立するとしても矯正しない方が良いのか、も。

カピバラより軽いもの

今年の1月、静岡へ行っていたときに宿で観ていた静岡ローカルのニュースでカピバラの長湯対決を取り上げていました。ただ静岡カピバラ勢は栃木などの他県のカピバラより長湯ではなくて勝ち残れてません。我ながら記憶容量の無駄遣いと思ってるのですがなぜそんなことを覚えてるのかといえば、ゲラなせいもあるのですけど長湯する静岡カピバラ勢の映像を眺めながら(そんなに笑うところ?と呆れられながら)笑いをこらえるので精いっぱいだったからです。

勤務先で来年の1月あたりのことを協議していて、どうなるかわからない考えたって無駄なことはやはり考えたって無駄なものの、東京が微増傾向なこともあってやはり先がいくらか不透明である状況下で先の話を考えると協議が終わった後も「こんなんいつまで続くのかなあ」というどこかなんとなく小さい落ち着かなさからくる不安のようなものが残ってました。

帰宅してからニューヨークタイムズ紙が不安になったらカピバラ入浴動画を視聴することを推奨してるのを知って、「へええ」と思ってカピバラ入浴動画を眺めていたのですが、そのうち1月同様に笑いをこらえるので精いっぱいになってしまい、落ち着かなさも消えています。カピバラの前に私の落ち着かなさが消えてしまったので、いまの私の抱えてる小さい諸問題はカピバラより軽かったのか、もしくはカピバラはほんとすごいのか、どちらかです。あ、いや、カピバラで笑えてしまうゲラな私がおかしいのか。

しばらく不安に陥りそうになったら・落ち着かなさを引き摺ったら、またカピバラを眺める予定です。

すき焼き麩・くるま麩

東京のすき焼きは割り下をつかう、どちらかというと煮るスタイルのものです。長いことすき焼きといえばそれでしたが、ここ数年、京阪神式の割り下をつかなわい・牛脂を最初に敷く、まず犠牲となる肉(と勝手に名付けてる先鋒の肉)を一枚か二枚か用意して砂糖と醤油をかけ、犠牲肉がいい塩梅になったら追加で具材をどんどん足してゆくすき焼きをやるようになりました。いますらすら書いていますが最初は一緒に食う相手の「テレビでやっていた」というおぼろげな証言が出発点で、もちろんそのテレビを私は見ていません。

戸惑ったのが麩です。視聴した番組では麩を入れていたらしいのですが、私も死んだ両親もすき焼きに麩を入れる習慣が無かったので、ほんとかよ?と思っていました。高島屋だったか大丸だったか肉を調達したついでに乾物を扱う売り場へ行き訊くは一時の恥なのですき焼きに入れる麩ってありますか?と訊いて、教えてもらったのが京都の半兵衛麩というところのすき焼き麩でした。訊いたのが関西発祥の百貨店だからよかったのかもしれません。

話をもとに戻すと水でもどしたすき焼き麩をすき焼きに入れるようになっていて、犠牲肉のあとにネギなどと一緒に加えてます。最初の犠牲肉も美味しいので(奪い合いになりがちなので)すが、味が染み込んだすき焼き麩も(残り少なくなれば奪い合いになりがちなほど)イケます。肉はすき焼き用の肉ではなくて多少ランクが落ちる切り落としでもいいのですけど、麩だけはランクを落とさず半兵衛麩のものを買っています。昨日使い切ったのでそのうち調達するつもりです。

以下、十日の菊的なくだらないことを。

先月旅行で行った富山はくるま麩がありました。あとで知ったことですがどうやらくるま麩をおでんに突っ込むっぽいのですが、麩が汁の旨いところを吸い込むのを知ってるがゆえに、(昆布で有名ですからおそらく昆布の出汁の旨味を吸い込んだくるま麩のおでんを)富山で喰わなかったのがかさねがさね残念だったり。

麩に限らぬかもしれないのですがものを知ってしまうとあとで後悔することって増えませんかね。そんなことないかな

開高健記念館「開高健の世界2020展」

私は文学部卒でもなければ文学者でもありません。なので素養もありません。その上たくさん本を読んでいるわけでもありません。ですから読書とかそこらへんのことに関してえらそうな口は叩けません。ただ高校の時からずっと引っかかってるのが開高健作品です。晩年の開高さんは茅ケ崎に住んでいて、その住居跡が市立の記念館になっていて、なんどか訪問しています。生誕90年に付随して来年3月28日まで「開高健の世界2020展」をやっていて今日の午後も訪問していました。

展示内容はおおまかに書けばデビューから死去までの発表された各作品を関連する品物とともに紹介しています。例を挙げれば「ベトナム戦記」と一緒にベトナム語で「ワレワレは日本人デス」「タスケテ頂戴」と書いてある日章旗やヘルメットや米軍の従軍許可証が展示されててたりします。いっぺんでも読んだことのある人間にはだいたい既知のことばかりですが、執筆のきっかけとなった事項に触れられていて、たとえば「パニック」に関しては当時の新聞などのコピーも添えられてて作品を未読でも理解できるようになっています。マニア向けというより多くの人に幅広く知ってもらいたいという姿勢に好感が持てました。

文学作品だけでなく勤務先であった寿屋(いまのサントリー)のウイスキーの広告そのものや、(サントリーウイスキーを置いているバーに優先的にノベルティの代替として配布していた)編集に関わった酒にまつわる随筆等が掲載されていた洋酒天国も展示されていました。存在は知っていても洋酒天国の冊子の実物を見るのは実は初めてで、バカにされそうなことを書くとまず「ほんとにあったんだ」という感想しかでてきませんでした。想像していたよりも薄くて小さかったものの、広告制作や作品の執筆と同時並行して編集作業にあたってたわけで開高さんは当時20代であることを考えると月並みなことばなのですが「非凡な人だったのだなあ」と思えます。

「夏の闇」に付随して原稿用紙大の紙に書かれたメモも展示されてありました。すべてがきちんと箇条書きにされてるわけではなく、おそらくベトナムで遭遇したことなどを思い起こしながらある部分は横書きで箇条書きに、それ以外にもランダムにいろいろ書かれてる・書き込まれてるメモです。創作の現場というか小説がどう書かれるかなんて知る由もありませんから興味深かったのでついまじまじと読み耽ってしまったのですが、書かれてる内容のうち文字の上に横線が引いてある部分とそうでない部分があって、メモを基に執筆していたのかもな、と推測してます。もちろん正解は開高さんしか知りません。整理して書かれたとは思えないメモもあってたとえば

男は1人でいるとおばけになる こころをかたちにすると

なんて書きこまれてました。似たような語句をどこかで読んだ記憶があるのですが、ちょっとあいまいです。これだけだとよくはわからないのですが、(地に足がつかないようなことを考えてたり疲労時に一人でいると恨みつらみに引きずられたりするので)そういうところあるかもしれないとは思えましたって、もしかしたら私はおばけなのかもしれませんが。ってそんなことはともかく、この創作に関するメモと洋酒天国が今回いちばん出会えてよかったものです。

他にも「生物としての静物」に出てくる辞書である言海が置いてあってぼろぼろでかなり読み込まれてる形跡があって言葉を扱うわけですから当たり前なのかもしれませんが、ちょっと唸らされています。もしかしたら独特のあの文体は言葉に対する絶え間ない探求に裏打ちされたものなのかも。

活字になってるもの以外の情報を脳内に入れることは作品を読むうえで必要なことではありませんが、見学しに行ってよかったというか、度数の高いアルコールを呑んだような感覚になりながら満足感を味わえました。

以下、ほんとくだらないことを書きます

記念館の前はラチエン通りといい、その先にエボシ岩というのがあります。このラチエン通りを歩くと、写真にしてしまうとわけわかめなのですがときどきエボシ岩がバカでかくみえることがあって、今日がその日でした。

でも海岸まで出ちまうとちっちゃい。1人だったのでおばけになってて別のおばけを呼び寄せてしまいそのおばけに錯覚を見せられたのかもしれませんが。

今週考えてたみみっちい計画

体温計で体温を測る日々を続けていて相変わらず体温は低めの低体温動物であることを毎朝確認しています。幸いなことにCOCOA接触通知も9月の一回こっきりです。ただ住んでる街では以前のようなクラスターは発生していませんが保育園で陽性患者が複数人確認されてて、第二波が去ったとはいえやはり状況はあんまり変わってないのかもな、という気がしています。「10万円の定額給付は消費に向かうのが望ましい」という記事を今週に入って読んではいるのですが以前とさして変わってない状況下で万一罹患したとき、医療費や検査費は公費負担かもしれないけど手持ちは多めに持ってたほうが良いかもと踏んで遣う気になれず、(1万円ほど重粒子線施設へ寄付し、千円ほど高級なジャムに使った後の)8万9千円ほどまだ残しています。

なんだかケチ臭いみみっちい話で恐縮です。

どこが悪いのですかと訊かれると顔と性根がって答えるのですけどコロナと関係なく通院してて、ドクタは調整したり工夫してくれたものの2日連続で都内の病院へ行く用が出来ちまっています。特に2日目が朝いちばんで早起きしてメシ抜きで多摩地区から都心部へ向かうの憂鬱だなあと思ってたのですが、そんななか今週知ったのが都民割です。どうもgotoと併用可能らしいよと同僚からきいて、だったら定額給付金の一部を使って都心部で一泊しようと目論みました。帰宅してから病院からバスで一本のホテルのホームページを開いてさあ予約しようとしたら先着順だったようで都民割プランは全滅で、やはり世の中甘くありませんでした。あははのは。

もうちょっとケチ臭いみみっちい話を続けます。

都民割は無くてもgotoを利用すればそこそこのホテルにそこそこの値段で泊まれるよなあ、と考えてたら今日になって「観光以外はgoto対象外」というのを知りました。うわあケチくさ、とまず思ったものの、その言葉はおのれにブーメランのように刺さります。ホテルで観光するかどうか確認されるわけではないよな、とか、観光目的にするために東京タワーに登ろうか、とか考えたものの、考えてるうちに安く泊まろうとしたことがなんだかバカバカしくなってきてその計画も止めました。安くってのは魅惑的かもしれませんが、それにこだわることがバカバカしくなってきたというか。

いつまでこの状況が続くのか予想もできませんが、非リモート勢なので手洗い励行とマスク着用をしながら来るかもしれない第三波に備えながら、やはり無駄遣いせずにしばらくやり過ごします。