小さな保冷剤コレクション

たぶんなんどか書いてると思いますが311の直後、物流が停止したせいもあって多摩地区は精米がしばらく品切れでした。情弱wwwwwってバカにされそうなことを書くと、仕事を優先していたのでそんなことはつゆ知らず、退勤時に住んでる街のスーパーでお米が無くなった棚を眺めて呆然としていたクチです。やむを得ずお米の代替品としてマンナンごはんというダイエット用蒟蒻入りのパックライスと冷凍の赤飯を買っています。 先に食べたのは冷凍赤飯です。輪番停電が来るのはわかっていて、電源がない状態で冷凍庫の冷凍品がどれくらい持つのか見当がつかず、冷凍品を先に食っちまおうというシロウト判断です。そのときは冬の終わりということもあって最長3時間くらいの停電なら何とかなることは学習しました。幸いなことに輪番停電は冬の終わりだけで済んでますが、以降、地震が来たら停電はありえないわけではないと考えるようになり、これまたシロウト考えですが大丸などでくれるおまけの保冷剤を冷凍庫に放り込むようになりました。

何年も冷凍庫に保冷剤を放り込むことを惰性で続けていたのですが「もう大丈夫かな?」と捨てようとしたことがあります。ただ、おととしの今ぐらいのときに京阪神を襲った台風があって、知り合いにメールをしたら停電は免れて冷凍庫の551のアイスキャンデーも無事、と返信があってそれをみて、ああ551のアイスキャンデーがある生活羨ましいな…じゃねえ「台風でも停電はあり得るんだよな」と考えを改めて冷凍庫の保冷材は入れっぱなしです。

さきほど数えたら小さな保冷剤が14個ほどありました。気休めにしかならないかもしれないものの、いまのところありがたいことに輪番停電以降は停電はないので効果は不明です。デカい保冷剤、買うべきかなあ…と台風の報道に接するたびに考えるのですが、踏ん切りはまだついていません。はてな今週のお題が「もしもの備え」なんすけど、小さな保冷剤コレクションが威力を発揮する機会がない日々が続くことを祈るばかりです。

「宇崎ちゃんは遊びたい」の桜井先輩から考える言語の意思疎通の不完全さ

去年の青ブタを東京ローカル局のMXで偶然視聴して以降、たまに夜に放映しているMXのアニメを視聴しています。いくらか前に「宇崎ちゃんは遊びたい」のチョコミントに関しての回について書いた記憶がありますが、録画していた直近の回の4話ほどを週末に消化しました。面白かったです、で済ませても良いのですが、もったいないのでちょっと書きます。すべての回を視聴してないので大きな口は叩けませんが、表題は「宇崎ちゃんは遊びたい」なものの実質は宇崎花という元水泳部の後輩に懐かれている桜井先輩の受難で、アバウトな説明としては常識的な桜井先輩が宇崎ちゃんに振りまわされながら話は進行します。

桜井先輩は猫を溺愛する点を除いては比較的常識人なのですが、言葉がいくらか足りないです。ある日、宇崎ちゃんに桜井先輩は電話をかけて「つきあってくれ」「おまえが必要だ」と熱く語り、呼び出された宇崎ちゃんが待ち合わせ場所へ行くと猫カフェへ連れて行かれて、1人では入れなかったから助かった、と宇崎ちゃんに感謝するのですが、呼び出された想定外の理由を知った宇崎ちゃんは桜井先輩に足蹴りを何度も喰らわします(「猫カフェと居酒屋で遊びたい」)。また、布団を汚してしまった宇崎ちゃんは恐縮しながら謝り桜井先輩は「酔った上でのことだろ」「少し布団を汚しただけだろ」「おまえはじめての経験だから仕方ないって」「なにもなかったことにしろ」とひたすらなだめつつそこが仙台駅前であるがゆえに白眼視される状況を作り出します(「二人で花火を見上げたい」)。そして宇崎ちゃんから布団代として預かったお金のお釣りを返却しにいった宇崎邸で宇崎ちゃんのお母さんに挨拶しつつ視線は宇崎ちゃんのお母さんのひざの上の猫にロックオンしてお母さんを前に「触りたい」「いつか抱いてみたい」とつぶやいてしまいあらぬ誤解を招きます(「宇崎月はときめきたい」)。詳細は原作かなんらかの方法で放送をごらんいただきたいのですけど、視聴中は(わたしはゲラなので)息ができないくらい腹を抱えて笑っていました。でもって私が視聴した「宇崎ちゃん」の何割かは、一部を省いてしまうことや事実であっても状況によっては意図した通りには伝わらないことなどの、言語の意思疎通の不完全さ・不自由さ・ままならなさがテーマの一つになってるような気がしています。表面上は喜劇ですが裏返せば悲劇かもしれません。悲劇ついでに補充して書くとバイト先の先輩に促されて桜井先輩は宇崎ちゃんの水着姿を誉めますがその結果照れた宇崎ちゃんにどつかれます(「夏だ!海だ!きもだめししたい!」)。

人間は意思疎通のために言語を獲得しつつもその言語の意思疎通がなぜままならなくなるのか?これ、桜井先輩だけの問題なのかな?とか謎な方向へ私が感想を書くと発展しますが、それは横に置いておくとして、宇崎ちゃんも桜井先輩も完全無欠ではないのでそれゆえに話がどう転がってゆくか予測できず目が放せず、コメディのアニメとしては今のところの感想としては毎回飽きません。

でもなんですが。

宇崎ちゃんは女子の部分が人より成長してしまった姿で描かれていて(同性からすごいものを見てしまった…という表情をされる)、その点についてのいくらかの演出もあります。コメディに突っ込むのは「真面目か!」と批難をうけそうで、かつ、頭が固いのかもしれませんが、その点は「ちょっとな…」と思っちまいました。

接触アプリから陽性者と「2週間前に接触した」という通知が来た

この週末に起きたことを書いておきます。

土曜日は休みで通院先から帰ってきておそい昼寝をして、夕飯の準備をする前にスマホをチェックしたところ、COCOA・新型コロナ感染者接触確認アプリに通知がありました。確認すると「8月22日に1件」との表示で、金曜(9月4日)はなかったのでおそらく土曜日(5日)に判明した分です。話がいつものように横に素っ飛んで恐縮なのですが通院先は通院の7日前から検温の指示がありまして、診察前にも検温があってずっとまったくの平熱で、なので通知をみても妙に自信があって動揺はありませんでした。(ただ通知が4日だったら通院を控えていたはずで無症状有ウイルスかもしれない状態で通院してしまったことはマスクをして手消毒もしてても土曜の段階ではひっかかっていました)。

動揺はなくても念のため、文字通り個人的にいちばんの濃厚接触者に連絡して通知の事実を伝えて来ないように頼んで、続けて体調はどうかと尋ねるとまったくなんともなく、そのあと万一の時のため

「通知のスクリーンショットをとっておけ」

スマホGoogleの設定から接触確認リクエストを確認して、一致した数が0ではない日を探してスクリーンショットをとっておけ」

という指示が追ってあり、両方ともスクリーンショットをとっています(後者は9月5日分が該当)。保健所は土日は休庁日で「動きようがないかな」と諦めて土曜日は時系列のメモに加え22日にどこへ行ったかの簡単なメモを作成したあと寝ています。

日曜朝に新聞を読んでいて、購読している毎日新聞には受診相談センタの電話番号が載っていてそれに気が付き、念のため相談してみるかな?と思い立って昨夜のメモを片手に架電すると

「22日からそろそろ潜伏期間の14日間経過する+22日に外でマスクを外して外で外食などをしていない+直近7日間ほど平熱が続いている、という点から、感染の可能性は低い」

というのと

「アプリは交通機関や商業施設などで陽性になった人が15分くらいすぐそばに居れば通知がゆく。本屋に寄ったならそこで検知した可能性が高い」

という仮説を貰いました。本屋にいましたし、本を探すときは本しか見てませんから対人の距離をとってなかった可能性が高く、腑に落ちるものなので、その仮説を信用するつもりです。念のため今日1日は蟄居し、熱が出なければ通常の生活に戻ります(接触者アプリに通知があったことの通院先への報告は所轄の保健所の指示に従う予定です)。

アプリに関して「陽性反応を示した人に2週間くらい前に接触した可能性があります」といわれてもなあ…という若干の不満がまったくないわけではないのですが、私の場合は幸か不幸か7日ほど検温したことがネガティブ要素の除去につながっています。次回の通院はもうちょっと先なのですが、眠たい目をこすりながら検温はしばらく続けます。

「煙たい男」

義務教育の頃に「なんでこんなものを読まされなければならないのだろう」という作品がありました。筆頭は森鴎外舞姫です。恋路とおのれに課せられた使命とどっちをとるの?という作品なのかもといまは気が付きますが、コイと云えばカープくらいしか知らず恋などしたことがない人間にとっては「知りもしないエリートの優柔不断な男の悩み」をなぜおれが読まねばならんの?というのがありました。そんなやつですからはてな今週のお題が「読書感想文」ですが、学校で渋々読まされた本の感想文は苦手でしたし、それを引き摺っていまでも苦手意識は抜けません。ましてや読書の世界では読書は経験であるということからか、多くの人と経験する千人切りと同じくたくさん読むほうがなんとなくエラくてスゴいという空気が漂っていますから、遅漏…じゃねえ遅読で労働者ゆえにそもそも本をたくさん読んでない方からすると本を語ることすらおこがましい意識があって肩身はひどく狭いです。加えて、本を読むことは嫌いではありませんが、読んだ本について他人に説明して思うところを書くということはおのれの読解力とそれまでの知識と思考回路と表現力をさらすことになりますから、どこも隠さず全裸でカンカン踊りをするようなもので私にとっては笑われることの恐怖と常に隣り合わせで勇気が要ります…ってそんなことは横に置いておくとして。

話はいつものように横に素っ飛びます。

最近読んだ本のひとつに「談春 古今往来」(立川談春・新潮社・2014)があります。さだまさしさんと談春師の対談や前作「赤めだか」の登場人物の後日談のほか、いくつかのインタビューなどをまとめた本で(詳細はお読みいただくとして)、病院の会計の前などで読みすすめていました。そのなかに

ー先ほど、いまの人は伝えようという欲求が希薄だとおっしゃっていましたが、誠実に自分の意見を伝えようとする談春師匠からは、いつも愛を感じます。そう考えると、いまの日本は愛が足りないということでしょうか?

「違う、愛が溢れすぎている」

ー溢れすぎていますか?

「当たり前だよ。言葉を尽くして説明しなくても愛されると思い込んでる」

ーそれは錯覚?

「錯覚じゃないよ。そう教育されてるんだろうよ。人は誰からも教わらず、こんなに他人の気持ちに敏感すぎたり、鈍感すぎているわけではないんだから」

(P154「煙たい男」)

というのがありました。私は言葉で苦労し、知らず知らずのうちに言葉を尽くすようになったのですが(なので文章も長いのですが)、言葉を尽くさない人もいるわけで、それはなぜだろうという純粋な疑問があって(私はそれを言葉を尽くさなくても同質性があると思い込んで理解してもらえると考えているからかな?と仮説を立てていた)、談春師匠はそれを上記のように「言葉を尽くさなくても愛されると思い込んでる」と喝破してて、正直、(人の気持ちに敏感すぎるというのも含めて)云われてみれば腑に落ちるものでした。てめえはそんなことも知らなかったのかと呆れられそうではありますが。

他人の視点をおのれの中に取り込むというのができるというのは本を読むことの効果のひとつと思うのですが、上記のインタビューやそれ以外の表現や芸に関する見識を含め談春師の視点に出会えたことは零れ幸いです。そう考えると、恋を知らなかった頃のおのれに恋をすると頭が良くても男は優柔不断になるという視点を与えてくれた森林太郎博士にも感謝せねばならぬ気もするのですが、なんだろ、嫌々渋々読んで知った本から得たもののせいか素直にはなれなかったり。読書って、置かれた条件によって感想って変わってきませんかね、変わらないかもですが。

97年前のこと

死んだ父の財産を相続するときに必要があって隣県の祖父の旧本籍地へ戸籍を取りに行きました。そこで祖父の名前を訊かれて必要な戸籍をとったあと、祖父の名前で登記してある土地があることを小声で教えてもらっています。いまだったら個人情報の漏洩になりかねませんが平成の市町村合併の前で長閑な小さな役場だったせいかそんなことを教えてくれたのかもしれません。地番をメモして(オンライン化の前なので)登記所へ行って登記簿をとると明治30年代の売買で、どう考えても祖父が乳児の頃なので祖父の意思で購入したとは考えにくく、(歌舞伎の家ではないけど代々△代目〇〇郎という名前を継ぐ習慣があったので)同じ名前を名乗っていた曾祖父が売買したものであろうことは確かです。でも死んだ祖父の相続の書類を引っ張り出して明細を眺めると祖父はその土地をどうも把握してません。

ここから先は推測です。

曾祖父は関東大震災の日、つまり97年前の今日は東京に居て、いまの本所吾妻橋のあたりから両国へ行ったようで、横網町の被服廠跡で焼け死んで(ることになってて)、祖父が引き継ぎはしたもののなんの準備もせずのことだったはずで、すべての財産を把握できなくてもわからなくもないです。父が死んだ段階で固定資産税の課税明細書を基に私は父の財産を把握したのですけどおそらく祖父も同じことをしてるはずで、いま固定資産税の免税点が30万でその土地の評価も30万以下なので税金はかかっていませんが戦前もおそらく税金がかからなかったはずで、税金がかからないゆえに祖父も気が付かず、同じようにおそらく父も気がつかないまま平成まで来ちまったわけで。ついでに書くと売買を証明するものも登記済証もなく、それを役所に説明してどうすることもできないのでそのままにしてあります。なので97年前の曾祖父の遺した宿題はまだ手付かずで、所収者不明の土地に関する報道が流れてくるとなんとなく「ごっ、ごめんなさい…」という気持ちでいっぱいになるのですが。幸いなことに道路にもリニアのルートにも引っかからず、誰かの手を煩わせる状態は訪れていません。

横網町の被服廠跡では曾祖父を含め3万8千人ほど焼け死んだことになっていて、祖父は父へ地震では火が怖いことを伝え、死んだ父も私にそれを伝えています。なので小さくても地震のときはすぐ火を消しますし、バカにされそうなことを書くと揺れがおさまったあとに消防車のサイレンが聞こえるといくらか落ち着かないです。97年前のことでも、なんだろ、あんまり過去になってないです。

予備のマスク

洗濯できるマスクを外出時にしていて、待ち合わせの場所に時間よりはやく着いてて、マスクを右耳のほうを外してペットボトルで水分を補給していました。ペットボトルのキャップを閉めて右耳をマスクのひもの部分をひっかけようとした矢先、マスクの紐の部分が切れちまった。それほど遠くないところにドラッグストアがあることは承知していて、メッセージ入れてドラッグストアへ行って買うことを考えはしたのですが約束の時間が近く、そして運転中であればまずそんなものをみないであろうことは予測できたのでその場を動くのは得策ではないと考えて、切れた紐を結んでマスクをつけてました。マスク監視警察が怖いわけではないけど、念のため、です。

鏡を持ってはいないけど切れた紐の部分を結んでいるわけでおそらく右に中心線がよった変なマスク姿になってるだろうと推測はついてて、案の定、待ち合わせ場所に着いたところで顔を一瞥されてて、いやこれはあの…と、走行中に一応説明したらロードサイドのドラッグストアがみえ、予備持っとけよ、と忠告を受けながら7枚入りの使い捨てを貰っています。ちょっと恥ずかしかった。

ので、なるべく予備のマスクも持つようにします。なんだろ、人って恥をかいて学習することってないっすかね、ないかもですが。

取引先や上司に居たら、の話

あまり政治の話はしたくはないのですが、その禁を破ります。でもってそのうち消すつもりの記事です。

これを書いているのは若干くたびれたおっさんです。若干くたびれたおっさんになる前は紅顔の美少年でした…ってそれは冗談なんすが、領収書の管理を任されていたことがあります。複写式の領収書の束を渡されて、入金があったのち、額が正しいかどうかを確かめてから金額と宛名を書いて、正本を発送して控えをこちらで保管していました。領収書は入金があってから対応するのが基本で律儀に守っていました。そもそも支払われた金銭を受け取ることが領収でそれを書面にするわけですから、金銭を受け取る前に書いたり宛名や額面等を白紙にしたら、もはや領収書ではないです。前にも書いたはずですが一度だけ私は頭がゆるいと思われてるのか「領収金額の部分の白紙の領収書を入金前に出してくれないか」と要請されたことがあります。が、「あの、金銭を受け取る前に渡したら領収書じゃなくなりますよね?」と頭がゆるいと思われてることを逆手に断っています。

もし入金を確認する前に第三者に領収書を渡したとしたら、もはやそれは「領収書」ではなく「領収書と書いた紙」です。現金在高と領収書発行金額があわなかったら困るのでそんなことは怖くてケツの穴の小さい私にはできませんでした。もちろん入金された金銭を確認してから領収書を書くというのは別に法律で定められたことではありませんから、そんなことしなくても誰も咎めません。でも領収書を書く上で暗黙の守るべき基本原則のひとつで、取引の証明を支える市井のルールであったりします。

新聞報道が正しければ、政治家の主催する集会で、発行会社が金銭を確認する前に書かれた書面(つまり基本原則を守ってない領収書)を集会参加者からの金銭受領時に集会参加者へ手交した、というのがありました。そう云ってたのは集会を主催した、領収書の印紙税が関係してくる国税も属する行政府のトップを兼ねる政治家です。繰り返しますが発行会社が金銭を確認する前に書かれた領収書というのはちょっと考えにくいのです。百歩譲って仮にそれが事実であったとしても、だとするならば発行会社の相手の信用にかかわることなので空気を読んで口外してはいけない種類のものです。口外するのは自らを安全地帯に置きたいのかもしれませんが、その行動は軽蔑に値します。

この度辞意表明した行政府のトップは、善意に解釈すれば金銭に関する事務処理能力が無くて、ゆえに領収書についてというより市井のルールに疎いのかもしれず、だから平気で基本原則を無視した領収書の存在をほのめかすことができるのかもしれません。悪意の解釈をすれば領収書についての市井のルールなど小さなことなのですが、その小さなことすら疎いまま放置して勉強しようとせず、かつ、無視する言動をし、取引相手の信用も守れない人であるともいえます。正直、取引先や上司に居たらイヤなタイプです。

別に政治家は全知全能でなくてはいけないわけではないです。が、できることならこの緊急時に次に行政府のトップになる人には、願わくば、小さなことでも知らなければ勉強するほう、取引先や上司に居たらイヤなタイプじゃないほう、軽蔑に値する行動をしそうにない人のほう、がいいんすが。直接選べないのが歯がゆかったり。