棚の奥の瓶

たぶんなんども書いてるのですがカリーヴルストというのを作ることがあります。ホットドッグに使うような長めのソーセージを用意して(小さなソーセージをぶつ切りにしてもオッケイですが)フライパンにいれて油を敷かずに水を50㏄ほど入れ加熱し、別途ケチャップとカレー粉をぶっかければオッケイです(+フライドポテトを添える)。ドイツの簡単な料理なのですが、本場のレシピは残念ながら知りません。ただ☆を頂いた方がドイツで食べたのを回顧されながらやっていたので、最近閲覧させていただいてて勉強になってます。

でもって私はソーセージにケチャップ+オイスターソース+カレー粉(この比率はほんとお好みで)を混ぜたものをかけていて、というのは日比谷の屋台で食べたときにケチャップにオレンジジュースを混ぜたのか柑橘系の味がしたことがあって「あ、ケチャップになにか混ぜてもよいのだ」と気が付いて、いまに至ります。カリーヴルストは酒のアテにもなりますが、白いごはんにもあうので、疲れてちゃんと作る気力がないときにポテトではなく茹でニンジンを添えて登板させます。誇り高きゲルマンの民がどういう理屈でカリーヴルストを創作したのか謎なもののいまでは極東で根がズボラなサラリーマンの遅い夕餉のアイテムのひとつになっていますって、なんだか書かなくてもいいようなことを書いてる気がしますが。

書かなくてもいいようなことを続けます。

海外の食文化紹介で数日分の野菜を瓶に詰めて作り置きするジャーサラダというのがあってそれを紹介する記事を読んで、ああなるほど、3日分作っておけば3日分考えずに済む、いつかやろうと考えていました。根がズボラなのでどちらかというと横着できそうなことはしたいのです。ザワークラウトもいいな・作ろうかな、などと夢想してそれ用に試しに小さいのを以前ひと瓶だけ買いました。ところがどっこい、遊びに来た彼氏がその瓶を見て「これ、なに?」と突っ込みが。一応るる説明したあとに呆れたように「やめておけ」。日本は湿気が多いし衛生的にいいとは思わない、と忠告されていわれればそうだよな、と妙に納得して諦めています。おなかを壊す恐怖はズボラに衛生面での最低限のブレーキをかけてます。

ザワークラウトも作らずにいて代わりに蒸し煮したキャベツを甘酢で和えてばりぼり食べています。瓶はいまのところ使い道がなく棚の奥に置いてあります。その瓶を見るたびにズボラで思慮の浅い過去のおのれの記憶を思い出すのですが、でもなぜかその記憶を捨ててはいけない気がしてならず、捨てられずにいます。

聴こえてくる音

外出自粛要請が出てからというもの、いま住んでいる街では自動車の往来がまず減っていて朝も夜も静かです。自転車もイヌと一緒に散歩する人も少ないです。するとどうなるかというと緑が多いせいもあるのですが(愛鳥家ではないので確証は持てないけどたぶん)ムクドリが朝、我が物顔で歩道にたまに居ます。もしかしたら私がムクドリになめられてるだけかもしれませんが、このまえは目が合っても逃げませんでした(なのでこちらがよけた)。

ムクドリと異なりウグイスは歩道に降りてきません。そのウグイスの鳴き声はたまに聞くと風情がありますが、窓に近いところで我が物顔で(ってみたわけではないけど)不規則に朝にやられると、うるせえ見つけ次第焼き鳥にしてくれるわ、という殺意を抱きますって、鳥の話を書こうとしたいわけではなくて(念のため書いておくと鳥類は嫌いではありません)。

ここのところ学校などでさらえないのか・音楽教室も休みなのか、近所で誰かがピアノを弾いててその音も聴こえてくるようになりました。さすがに夜9時過ぎたらだいたい終わってます。ウグイスの鳴き声と違って殺意を覚えないのは規則性があってそれで眠りを起こされるわけではないからかも。この半月、近所の誰かがさらってるのはショパンの革命です。3分もない練習曲ですが、あれ、左手が忙しくていくらか技巧が必要なうえに、それだけだとつまんないので情緒的に弾く必要性があるので、いくらか厄介です。でもって帰宅時に聴こえてくると「あ、まただ」となります。さすがに半月聴いてるとメロディは完全に頭の中に入っています。でも練習ですから、たまに止まります。いったん消えた主題が再び現れるあたりで止まることがあって、若干前から弾きなおして、ってことが多いような。

そろそろ終わる頃かな、と時計を眺めると9時すこし前でした。台所で洗い物の手を止めると最初から弾きはじめてて、主題が再びあらわれるあたりで巧くいくといいな、と思ったらちゃんとクリアして、今夜はそれで終わり。お、うまくいった、と咄嗟につぶやいて我に返ったのですが、つか、他人のピアノでなんでハラハラしてるのか。

静かになると静かになったぶんだけ、聴こえてくる音に振り回されることってないっすかね。ないかもですが。

スマホのこと

父が生きていた頃、私が不在の時に実家の固定電話に見知らぬ人からかってきて、女性の声で「楠田(仮)君の高校の同級生の〇〇と申しますが」と名乗るので一呼吸おいて父が「あの、うちの息子、申し訳ないけど男子校出てるんだけど」というと即切りやがった、もっと泳がせれば面白かったはず、惜しいことをしたな、と父が悔しがってたことがありました。90年代中頃は番号表示のある電話機が普及途上だったはずでそういうことがありましたが、いまはスマホでも番号表示で、私は私用のスマホは知らない番号にはまず出ないので、残念ながら(残念ながら?)そういうことはありませんって残念がる話ををしたいわけではなくて。

昨日私用のスマホに全然知らない電話番号が勤務中に掛かっててきてて、当然、出れませんから退勤後に確認すると留守電が入ってて、確認すると個人的に取引のある金融機関の異性の行員さんの声が入ってました。でも明らかに支店の番号ではありません。金融機関に私用のスマホの番号も登録はしているものの、行員さんの個人の番号までは知らないので面くらいつつ、今日の昼飯前に念のため確認のために電話を掛けてみると面識のある行員さんで、職種によってリモートワークらしく支店に出ないで支店の電話ではない電話で連絡しようとしてたようで。出なかった非礼を詫びたのですが、出れる状態でも知らない電話番号だったら出なかったかも。金融機関からの電話が明らかに支店の電話ではないスマホと同じ080からはじまる番号とはまず思わないので。

おれが頭かたいだけかもしれぬものの、スマホって便利なんすが、いままでの知識や延長線上では想像できなかったことが身のまわりに現れると、いくらか戸惑うことってないっすかね、ないかもですが。

くだらないことをあとひとつ。

スマホにコロナの外出自粛前まで小田原あたりのパチンコ屋さんのSMSのメッセージがなんども来ていました。外出自粛が強くなってからは一切来なくなっています。時間があったときに着信拒否の設定もして、やれやれ、と思ったところにこんどは小田原のクリーニング店からSMSが届くようになっています。似たような番号を持つ人が小田原に居るのは確かっぽいのですが、どうもおっちょこちょいなのかもしれません。次はどんなSMSが来るかわかりませんが、勘弁してくれよ、と思わないでもないです。

スマホ、便利なんだけど、見知らぬ番号が近い人がおっちょこちょいだと、ちょっと振り回されて戸惑います。

国語力の低下

なるべく野球と政治の話は自制しようと考えてたのですが今夜はちょっとお許しください。

14日付毎日新聞夕刊にさだまさしさんの寄稿がありました。たとえば平等について100人いる避難所に120個のケーキが来たらどうするべきかとか設問を投げかけて問うていたりと読んでいて考えさせられる内容なのですが、印象深かったのが言葉に関する次のくだりです。

有事において国や行政の態度、殊に言葉に国民は敏感だ。真実の情報が知りたいのだ。コロナ蔓延の正確な情報の少なさに誰もが怖がっている。「知らないという不安」が混乱を招く。これはリーダーたちの「言葉力」「日本語力」の不足だ。有事に際しては今の危機、その手当、次の指標、次の手当、そして出口の目標を示すべきなのだ。自分の言葉で、自分の哲学で、誰にでも分かる言葉できちんと説明できる人が欲しい。

 (寄稿・コロナ禍が問う「自由と平等」・さだまさし

いつものように話が横にすっ飛んで恐縮なのですが。

読んでいちばん最初に想起したのはイギリスのジョンソン首相のスピーチです。ジョンソン首相が新型コロナに罹患して退院したあとのイースターのスピーチをイースターのあとに聴いています。(外出しないことや外出時に社会的距離をとったりすることなど)国民がなすべきことをしてくれてるので(thank you,because so millions and milions people across this country have been doing the right thing)それがNHS(国民保健サービス)を守ってることになってることに謝意を述べ、またfightであるとかnational battleという言葉を文中に差し込みつつ 、現場の医師、看護師、検査技師、薬剤師、清掃員などのスタッフに謝意を述べ、私たちは新型コロナに一緒に打ち克とう(We will defeat this cornavirus and defeat it togther)、NHSを守ろう、社会的距離を取ろう、と述べています。イギリスとて日本と同じく新型コロナの正体をつかみ切れていません。韻を踏むようにthankという言葉がかなりの回数で頻出しますが具体的な数字は一切出てきません。でも繰り返しになりますが、協力に感謝してること、まだ危機であること、戦わねばならぬこと、そのために社会的距離をとりそして外出を控えること、一緒に打ち克とう、などが英語を母語をとしない人間にも印象に残る程度の(おそらく)自分の言葉で語ってるであろうスピーチで、こんなふうに日本語で語れる政治家がいればなあ…と感じていたのでかなり印象に残っています。なので上記のさださんの「誰でもわかる言葉できちんと説明できる人が欲しい」というのはすごく腑に落ちています。

また、’(国民が)真実の情報を知りたいのだ、というのもなんだかすごくよくわかるのです。目安としての三七度五分が四日連続、という受診の目安が今月に入って削除されてて「は?」となってたのですが、なんだろ、血液の数値に若干の不安がある・若干健康に不安があるほうからすると、この国ほんと容易に信用できないし怖いなあ、と思ってます。

ただ人のこといえるかというと怪しいです。というのは、さださんは寄稿したコラムの中で国語力の低下が日本の最大の弱点とも指摘してます。日本語を母語としつつも巧く日本語で文章を書けずにパソコンの前で「うがーっ」となってることが多いので背中に矢が刺さって痛いです。ルーマニアの哲学者の「人は国に住むのではなく、国語に住んでいる」という言葉も引用しているのですが、なんだか皮膚感覚としてはよくわかる気がしてます。社会の問題としてだけでなく社会を構成する一人の人間として、なるべく国語力を上げるように(具体的には自分の言葉で、かつ、読んだ人が意味を理解できるよう書くように、ちょっとは)努力しようかな、と思いました。

紙紐のこと

はてなブログで何かしら更新しようとすると編集ページの目に付くところになぜか「おうち時間、慣れました?」と出ます。私は残念ながらリモートワークには向かない職にあっておうち時間とは縁があまりないです。慣れないことなら書けます。勤務先を退勤時に定時に上がれなかったとき+住んでる街のヨーカドーの閉店時間までにはできれば滑り込みたいとき、乗換駅の階段の途中で発車メロディがなると「ちょっとまってくれぇぇ」と声には出さぬもののマスク姿のまま駆け上がるのですけど、飛び乗った車内でマスクを外すわけにもいかずちょっと息苦しくなることは複数回経験してます。やはりマスクしながら階段を駆け上がることには身体が慣れてません。慣れる頃にはコロナが終息してればいいのですが。

今日も今日とてくだらないことを書きます。

 井伏鱒二さんの「黒い雨」のなかに戦時中の生活の記述がちょっとあります。主人公の家では日露戦争のときの品不足の経験から第二次大戦開戦時に塩とマッチを買って備蓄した(のでその二つは困らなかった)とあって、この国はイレギュラーなことが起きるとなにかしらが品不足になるので備えておくのがいい、ということはけっこう記憶に残りました。311のときは東京はポケットティッシュが品不足になって花粉症であるのでけっこうピンチになり、ああこのことかと腑に落ち、黒い雨に倣ったわけではないけど以降なにかありそうになるとちょっとは事前に買い置きを増やすようになっています。今回のコロナ禍の一時的品不足でも事前に買い増してたのでポケットティッシュ類は大丈夫でした。

ただ今回のコロナ禍で忽然と街中から消えて動揺したのが紙紐です。古新聞や古紙がたまるだけとはいえビニール紐では持ってってもらえないのでちょっと困っていました。先月末から探してるのですが今月に入っても私の住んでいる街では何軒探しても見つかりませんでした。が、今日になってやっと

お題「これ買いました」。正確には買えました、ですが。てか、なんで紙紐が街中から消えたのかなあ。この先、なにかありそうなときは紙紐も余分に持ったほうが良いのかな、と考えつつ、紙紐だよ?そこまで必要ないよな、とか、思いは千々に乱れてます。

ごま油を貰う

いまとなっては笑い話になるのだけど去夏に念のため一時的に1日10gの塩分制限をドクタから云い渡されていてそれを正直に実行にうつし、ドレッシングひとつとってみても大さじ一杯分の塩分量を確認してそれに酢を混ぜて、なんてことをしてました。夏ですから冷や奴を食べたいところですが、ネギをのせた豆腐に「ヒゲタ醤油に未練はないがー」と歌いながら醤油をテキトー掛けることなどはもちろんできません。なにかいい代替品はないかと考えて行きついたのがごま油です。ごま油に塩分はありません。豆腐に少量の柚子胡椒を載せごま油をかけたり、豆腐に塩昆布を載せてごま油をかけたりしていました。マルホンとかのどこでも売ってるごま油でもイケます無問題です(コレステロール値さえ正常ならば)。そこらへんからごま油熱が煙がでない程度にじわじわとあがりはじめました。

私は酒を含めてその土地でどんなものが愛されてるのか教えてもらうことがあるのですけど、京都で教えてもらってたのが山中油店というところのごま油です。少しだけクセがあるというか理屈はわからぬもののピーナツの香りがうっすらします。でもそのクセが忘れにくく中毒性があるというか、あったらもう一度試したいと思わせるものでした。でも残念なことに私が住む東京では扱いがありません。祇園祭は見学したいのでその京都ゆきまでお預けかなあ、と思ってたところにこのコロナ禍で祇園祭は中止です。しばらく無理かなあ、と諦めていたのですが。

今春に見舞いを送った(山中油店を教えてもらった)京都在住の知り合いから昨夜返礼がきて、その中にありがたいことに山中油店のごま油がありました。思わず「おおおおおお」と低い唸り声をあげ(夜に黄金に輝く液体に驚くおっさんをご想像ください)、すぐさま礼のメールを送ってます。私は舌とやる気が直結してるところがあります。なのでしばらく忙しい日が続くのですが、これをニンジンになんとか乗り切れそうな気が。

余談ですが製造所が埼玉にあることも今回知りました。県境をまたぐ移動制限が解けて埼玉へ行く機会があったら探してみるつもりです。埼玉の油が京都でずっと愛されてるのもなんだか興味深いのですけど。

「みんなと共通することが重要視され」る空気のこと

たぶんきっと何度も書いてることなのですが、はてなハイクというSNSにいたときにSNSというのは同質性のある人同士を結び付けるにはもってこいのシステムではないか、という疑念をもっていました。同質性って別にややこしく考えないでいいです。「〇〇がいい」という意見を書く上で「なにがどういいか」ということを第三者にわかるように書くのが第三者にはわかりやすいのですが、Twitterなどの文字数の関係でそれができないとき、端折って書いてしまうとわけわかめになるのですが、書いた方と読んだ方に同質性があればその人たちの間では通じてしまい、結果として、SNSなどは同質性があり同じ意見を持った人同士の集まりになってしまうのではないか、と疑っています。疑うに至った過程はTwitter慣れした「何がどうよくないか」を端折る人の文章を読んで「わけがわかんない」と頭を抱えたことに起因します。もしかしてネットではそれがあたりまえなのかもしれません。それでもはてなハイクではゆらゆらと生きてこれたのですが。

この1年、折に触れて書いている青ブタこと青春ブタ野郎シリーズも実はネットやSNSの存在が何度か重要な要素としてでてきます。文中の言葉を借りれば事の真偽よりも「みんなと共通してることが重要視され」る空気がSNSなどネットによって醸成されたことがさらっと書かれてます(「青春ブタ野郎はおるすばん妹の夢を見ない」p112)。同質性のことは意識してもこの「みんなと共通してることが重要視され」る空気というのは正直青ブタを読むまではあまり意識したことがありませんでした。主人公である咲太と違って社会人ですが、「どう思う?」と意見を聞かれて違う意見を述べたら不思議そうな顔をした人のことを思い出し、あああそこはみんなと共通した意見を出すべきだったのだな、と読んだあと腑に落ちてます。

話はいつものように横に素っ飛びます。

マスクは感染予防にはならないけど無症状でも他人に感染させないためには必須であることを星条旗新聞で読んでから+リモートワークがいくらか困難な職種なせいもあって都心部への通勤をマスクをしながら続けているのですが、マスクが綱渡りというかピンチだった時期があって、アベノマスクでも何でもいいから欲しいと思っていた時期がありました。はてなハイク無きあとSNSっぽいものにアカウントを作りはしたものの、アベノマスクに否定的な意見をわりとみてしまうとなかなか発言がしにくくなってきました。その何割かはおのれの中にあるのですが、ああこれがもしかして「みんなと共通してることが重要視され」る空気なのかと妙に納得してます。気が付くとなかなかきついです。他人と異なる意見を持ちやすいのでやはり似たような意見が並びやすいSNSに向いてないなあ、と。

フィクションで知ったことが現実として体感できるともう一度フィクションを手に取りたくなり青ブタを本棚から引っ張り出してきたのですが、そこには(フィクションの5月には)野生のバニーガールの桜島先輩が図書館にいました。やはりフィクションはフィクションで現実ではないです。でもフィクションのおかげで前は気が付かなかったことを気が付けただけ、おのれにとってはラッキーだったのかな、と。