年をとる

白髪がそれほどなかった頃、年齢不詳気味であったのでほんとはいくつなのかと年を訊かれることがあって、そのときは、小首をかしげて人さし指と中指を頬にあてて「18でーす」とやっていました。幸か不幸か白髪がそこそこ増えて少なくとも中年にみられるようになったので、まず訊かれることはありません。これを書いているのは残念ながら18の紅顔の美少年ではなく、あわよくば訊かれたら「18でーす」と答えようとしてる以前より面の皮があつくなってしまったほうの厚顔の40代のおっさんです。

以前に抱えていた仕事でかかわりがあって、「あなた思ったより頑固だったよねえ」とほめ言葉とも悪口ともとれる批評を頂戴したことのある年上の他所の組織の人と今日面会する機会があって、「あ、もしかしてそろそろ定年かな…」などと直前に気が付いていくらか動揺したのですが、「もうちょっと厄介になる」旨のことを知らされました。こちらに要求するレベルはけっこう高いのだけど個人的にはかなり信頼してて、文字にすれば定型なんすが「引き続きご指導ご鞭撻のほどを」というあいさつもしてきたのですが。

巧く書けないのですけど両親が死んでからなんとなく年齢の意識が希薄です。おのれの年齢はもちろん知っているのですが(ちゃんとした大人になってない意識があってその)意識してる年齢はそのずっと下のままです。仕事上の付き合いのある人もなんとなく最初のときの印象が強く、白髪の少なかった30代だったおのれが40代になるとかつてお世話になった人もあたりまえのように同じぶんだけ年をとるんだよなあということにあらためて気づかされました。文字にすればなにバカなこと云ってんの的な、至極あたりまえのことなんすが。

ねぎ

八重洲とかお茶の水には小諸そばというそばのチェーン店があり、そこはネギは盛り放題ですが、そばよりネギが好きというわけではないのでいつも適量です。広島に仕事で行けばお好み焼きの上にもたいてい青いネギを散らします。が、やはりお好み焼きよりネギが好きかというと、やはりそれほどでもありません。正直に告白するとネギにそれほど注意を払ってきませんでした。

年末に偶然視聴していたテレビでネギを焼いておでんに入れていました。ああ、ネギを焼くのかあ、面白そうだなあ、などとそのときはぼんやり眺めていたのですが、それをこの週末に台所で偶然思い出し、豆腐や鶏だんごのほかにフライパンで軽くネギを焼いてから寄せ鍋に入れてみたのですが、ネギが香ばしく、また甘くなって、ちょっと唸らされました。料理にネギをいままで入れてきたのですが一切いままで焼くという工程をしなかったことをちょっと恥じるところがあります。味噌汁に焼いたネギでも激変しそうな気が。

いままで気が付かなかったのでショックっていうほどではないのですが、なんだか宝の山を前を素通りしていたのだなあ、と。

人でなしの節分

前にもいくらか書いた、狂ったことを書きます。

歌舞伎の演目に信州戸隠を舞台にした紅葉狩というのがあります。大スペクタクルショーの鬼征伐もので、詳細はぜひ歌舞伎でご覧いただきたくとして。最初紅葉狩を観たときはなぜ戸隠に鬼が居るのかというのが気になりました。で、なぜ戸隠に鬼が居るのか、なんすが、ネタになった伝承があります。鬼はもともとは「くれは」という名で琴の名手で京の都にいて、縁あってやんごとなき家の奥様の女中になりそのあとやんごとなき家の当主に寵愛されるようになり、こどもを産みます。そのうちかつて仕えた奥様を邪魔に思うようになって病気になるよう・この世からいなくなるよう祈りはじめ、それがバレて戸隠へ流されます。妖術を遣えたので戸隠では病人を治したりしてたのですが、時間の経過とともに京に戻りたい意識が強くなり荒みはじめ鬼となり妖術を遣い山賊を従えて悪事を働きそれが信州から京の都にも伝わり、退治せよ、っていう命令がくだり、平維茂により制圧されちまいます。伝承はそこで終わって、めでたしめでたし、なんすけど。

正妻さんを呪い殺そうとしたことや戸隠で悪事を働いた点で「くれは」というのは確かに悪い人です。ただ、好きな人が他にも振り向く相手が居てその相手がこの世から消えてしまえばいいのにという独占欲は呪い殺そうとはしなかったけど身に覚えがありますし、過去の追憶だけで生きてゆくのっておそらくちょっとつらいはずで「抱いてくれた相手にもう一度会いたい」ということやそれが叶わぬのなら荒んでしまうのも、なんだか善悪の判断とは別のところでうっすら理解できるのです。妖術はつかえないものの、なんだかおのれが鬼ではないけど鬼になりかねない素質がある・おのれは鬼に近いんだな、人でなしなんだな、と鬼について知れば知るほどつくづく自覚するのです。でもってはてな今週のお題が「わたしの節分」なんすが、(処女でも童貞でもないうぶだった)なんにも知らなかったこどもの頃ならいざ知らず、そういう自覚のある人間が「鬼は外」とは「どの口で云うんだよ」なので、もう何年も節分に豆は撒かないし自発的には喰いません。 

名古屋にいた頃のことです。アトムという寿司店丸かぶり寿司のCMで「今年は東北東!」と表示してるのがあって、わたしが育った東京には節分に丸かぶり寿司を喰うというシステムが無かったので意味がわからず、なにかの拍子に職場で「あれはなんなのですか」ときいた記憶があります。そのとき節分に恵方に向かって丸かぶり寿司を喰うと縁起がいいという風習を知りました。でも「恵方に向かって黙って食べると縁起がいい」派と「恵方に向かって笑って食べると縁起がいい派」がいて、戸惑うと同時に興味深かったのですがどっちが正しいのかは知りません。でもって丸かぶり寿司は笑う派です。もしかして縁起でもない地獄に落ちそうなことをしてるのかもしれませんが人でなしなのであんまり気になりません。というか食事のとき黙って食べるほど味気ない地獄はないと思うのですが、どうだろ。人でなしで鬼に近いくせして、そういう地獄が怖かったりします。

 

 

よく晴れた日々

あまりキレイでない話をします。

昨日の朝、起きて着替える前に鼻血がでました。しばらく押さえてるうちにおさまったので、顔を洗って出社したのですが、もう一回午前中、勤務中に人前で鼻血を出しちまいました。あ、出てると自覚したのと同僚が指摘してくれたのがほぼ同時であわてて椅子を後ろに身体を前屈みにし、幸いなことにハンカチは別として、書類や着ていたスーツなどは無事です。止血に成功してから離席して顔を拭いて、そのあとはなんともなかったのですが、退勤時に2度あることは3度あるよなーと思い至り、たぶん空気の乾燥が原因かと分析し地下街でマスクと念のための予備のポケットティシュ、ウエットティシュを購入して、地下鉄に乗りました。乗ったはいいのですが、途中で扉が開くすこし前で目の前の人がこちらをみてるのに気が付くのと「また出た」と自覚するのがほぼ同時で、あわてて止血しながらホームへ降りました。幸いにもまたスーツを汚さずにすんだのですが、目の前のにいた人、じわじわっと血が広がるマスクというスプラッタなものをみちまったはずで、悪いことしちまったなあ、と後悔してもあとの祭り。というか、鼻血って人前でやっちまうとなんだか不思議とこっぱずかしかったです。子供の頃よくやってて、鼻血≒子供っていうイメイジがあるせいかもなんすが。

でもってマスクをして眠ったら今朝はなんともなかったものの、おのれの鼻が乾燥の連続に弱いことをここで思い知ったので、東京は晴れた日が2週以上続いてるのですがそろそろ雨が降って欲しいところです(ちょっと切実)。もっとも雨が続くと靴下が乾かねーとかパンツが乾かねーとか文句たらたらなので、ほんとは言えた義理じゃないのですが。

 

はてなブログでカテゴリーを表示をさせるまで

はてなダイアリーのサービスが終了するのではてなブログに乗り換えました。いろいろとダイアリーにない機能があります。たとえば、画面に顔を近づけていただくとロウバイの香りが嗅げるとおもいます

…ってウソです。そこまではできません。冗談はさておき、以下、愚痴っぽいことを書きます。

どれだけの人が以前から継続して読んでくださってるのか正直わかりませんが、はてなダイアリーでは[家族法]であるとか[読書感想文]であるとか記事の横にカテゴリー分けをしていました。Webは辞書のようなものであるという意識が強いので、検索でたどり着いた人がそこらへん探ってくれればより適度な情報にたどり着けるかもしれない、と考えていたからです。で、ダイアリーからブログへ移行したのですが、ダイアリーでは表示できてたカテゴリーの表示は、ブログでは自動的に反映されたわけではありません。困ったなあ、と考えて、カテゴリーをブログに表示させようとしたのですが、こちらが知りたい情報に近いであろうはてなブログのヘルプの「サイドバーに[カテゴリー]を表示する」をみると

「カテゴリー」モジュールで、サイドバーにカテゴリーの一覧を表示できます。一覧の各カテゴリー名は、カテゴリー別記事一覧ページへのリンクになっています。カテゴリーの並び順は、自由に変更できます。

 って書いてあるだけで、こちらが知りたいこと≒どこをどうやったら各種カテゴリーを表示させることができるのかはそこからは読み取れませんでした。詳しくは知らない人が迷ったときにヘルプを読むことを前提にヘルプというのはあるとおもっていたのでヘルプと書いてあっても迷った私にとっての助け船になってないヘルプを読むとYou can go to hell!という感想しかありません。

やむを得ずヘルプに頼るのを止めて、とりあえず「ダッシュボード」というところを眺めていると「デザイン」の項があったのでそこを開くと「カスタマイズ」というのを見つけそこに「サイドバー」というのがあり、そこでやっと「カテゴリー」を表記させるカテゴリーモジュールをみつけ、なんとかなった次第です。見つけるまで5分くらいかかったかなあ。ほんとはもっと効果的な見つけ方があるのかもしれませんが見つけることができませんでした。

正直、ヘルプが使いものにならなさそうなのは理解できたので、わからないところが出てきたらどうしようかとちょっと頭抱えてるのですが、それは横に置いておくとして、とりあえずのところしばらく続けるつもりでおります。引き続きのご愛顧のほど、よろしくお願いします。

 

とろろ昆布とカツオ節

いつだったかワインが美容に良い、というのを読んだ記憶があります。だとしたら、ワイン消費量が全国2位の山梨には美男美女がたくさんいてもおかしくないはずですが、(山梨に縁があるので大きな声では云えないのですが)美男美女の産出地として山梨は有名か、というとあんまり聞きません。なので、〇〇が××に良い、というのは半分くらい疑ってかかっています。
はてな今週のお題が「冬の体調管理」なのですが、たとえば風邪を予防するたべものというものも意識していませんし、サプリなども摂取していません。風邪を完全に予防することなどもできないと割り切ってて、どれだけ初期の症状で抑え込むかしか考えていません。私は改源との相性が良い(と勝手に思ってるので)常に改源を持ち歩いてて、風邪のひきはじめかもしれないと気が付いた時点で改源を服用しています。(消化器系はべつとして)風邪で内科にはここ数年、ほぼお世話になっていません。
ただ「〇〇に××が良い」というのは疑ってかかってるものの、風邪のひきはじめのときや冬の疲労時にやるのが、お椀の中に市販のとろろ昆布とカツオ節を入れお湯をそそいでから醤油を垂らす、というお吸い物もどきです(水菜やネギがあれば水菜やネギを入れても良いです)。栄養学的にどうかとかは一切知らぬものの、椀からでる湯気を眺めてから椀の中のとろろ昆布とカツオ節を食すと落ち着きます。完全な錯覚の可能性が高いのですが、冬のおのれの体調管理の半分くらいは椀の中のとろろ昆布とカツオ節と湯気によって成り立ってる気がしています。

性同一性障害者の生殖機能除却に関する最高裁の判断(一部追記あり)

性同一性障害者の性別の取り扱いの特例に関する法律」というのがありまして、「性同一性障害者」の場合、戸籍を変更することが出来ます。ただし第3条に条件があり、二十歳以上であることや現に婚姻をしていないこと、現に未成年の子がいないこと、生殖腺がないこと又は生殖腺の機能を永続的に欠く状態にあること、などが必要です。条件に合致してる場合は家庭裁判所で家事審判を申し立てして家裁が許可をだし、戸籍の変更を行います。
性別変更に生殖機能の除去等を前提としているのは法制定時に戸籍上男である人が母になる事態がないように考慮してるのではないか→つまり親子関係の混乱回避とは云われています。ただ元女性の男性が女性と結婚し、第三者からの精子提供を受けて子を得て戸籍上の父になったケースはあります。また生殖機能の除去を前提としないで戸籍上の変更を伴う性別変更を家裁が許可した(但し女性から男性へ)ケースもあります(医療上生殖機能の除去が困難な症例で生殖機能の除去を前提としなくても家裁が許可を出した)。
しかし性別変更に関して審判のためにのぞまぬ手術をするのは、つまり生殖機能を除却する必要があるのは、憲法違反ではないか、という訴訟が最高裁に係属してて、生殖腺機能の除却は現時点では憲法13条等には違反せず、合憲であるというという判断が今日、下っています。裁判官全員の一致です。ただ判決要旨を読む限り生殖機能除却の規定は身体への侵襲をうけない自由を制約する面もあることは否定できずと述べ、さらに生殖機能除却に関しての趣旨は社会の混乱を避け、急激な変化を避けるための配慮ではあるものの、その配慮は社会の変化に伴い変わりえるものとして「合憲かどうかは継続的な検討が必要」とも述べてます。裁判官2名の補足意見のなかで違憲とはいえないが「憲法違反の疑いが生じていることは否定できない」とものべていて、戸籍上の男が子を産む事態を避けるための規定は実際おそらく稀で混乱も限定的だろう、性同一性障害の人の性別に関する苦痛は社会の問題であって、とも述べてて、苦痛を当事者に寄せて良いのか、という間接的な問題提起と読み取ったのですが、ちょっと唸らされました。恥ずかしながらこのidは匿名なので正直に書きますが補足意見中の「手術を受けるか否かは自由な意思にゆだねられるべき」というのにはっとしたことを告白します。
「生物学的見地」とか「遺伝上の」というような考え方から裁判官や行政の判断がどちらかというと「当事者の意思」などを尊重する方向に軸足を移しつつあり「もしかして除却なしで認める方向に行くのかな」とはおもっていたのですがそうはならなかったものの、揺るがない、というわけではなさそうで、たぶん、ちょっとずつ変化してゆくのかもなんすが。